仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

ビールと温泉と面白いものが好きな47歳、高校生男子の母。

梨木香歩が気に入った

梨木香歩が気に入ってしまった。まだ3冊しか読んでいないけど、全作品読破したい気分だ。
「家守綺譚」より。(何もかも不自由のない世界に誘われた主人公の青年が、その世界の住人に言い放つ。「こういう生活は、」)

「私の精神を養わない。」

「精神を養う」という言葉が、私はいたく気に入った。

梨木香歩の著作に触れてから、異質なものを排除するでなく包含することが「精神を養う」ことになるのではと考えはじめた。
例えば。ネット上で、志を同じうする仲間に出会うこと、気の合う人だけで集まるのは容易だ。一方で、自分の考えと異なる人を激しく批判する場面もよく見る。批判は別に良いのだが相手を何も言い返せない状態においつめるのを「勝ち」としてそれで満足しているようなのをみると、私は「もったいない」と思うようになった。
何故相手がそう思うのか。何故そのような考えを持つに至ったのか。そう思いを巡らすと、自分が新たな世界を学ぶきっかけになりはしないか。「この人は違う」と拒絶するでなく、「違うけどこの人はこうなのは理由がある筈だ」と知ろうとすることで(決して同情でも盲信でもなく、「わかりあう」とかいう甘っちょろい概念でもなく…なんか難しくてうまく言えないけど)「自分の精神を養う」ことになるんじゃないだろうか。
似たような考え、似たような境遇、そんな人だけで集まるのは確かに心地のよいことだ。だが、その中だけで進化していくには限界がある。やがて思考停止に陥る可能性もある。「なんで?」とか「◯◯って何?」といった言葉を発する人が来たら、「KY」とみなして無視するのではなく、大事にしたほうが面白いと私は思う。むしろ場の空気に「あ、こいつKYだ…叩け叩け」というのが満ちたら、自分たちが思考停止に陥っていることを危惧すべきなんじゃないか。TDC設立総会で長崎RBCの三海さんがおっしゃっていた「化学変化」も、こういうことなのだと思う。


私自身、とても身近な人物と考え方が合わなくて、これまで何度も悩んで来た。しかし、この人物が身近にいることが「私の精神を養う」ことだと思ったら、ふっと楽になった。そして先日購入した「りかさん」で、この文章に出会った。

「それはいいけど、ねぇ、なんでそんな価値観の違う人と結婚したのよ」
「そりゃ、おまえ、価値観の同じ人と結婚したって、修行にはならないじゃないか」
おばあちゃんはすまして言った。

冷や汗が出そうなくらい驚いた。

「家守綺譚」では、物の怪のようなものや既に死んだ友人、他の生物、「りかさん」では、人形たちや思念のようなものが、主人公の日常に異質なものとして入ってくる。主人公とその周辺の人物は彼らを決して排除せず、受け止めて、理解しようとする。
異質な他者が混ざり合うことで起きる出来事、面倒なことも、悲しいことも、嬉しいことも、受け止めて、「精神を養」っていく。実は人生って、そういうものなんだよね。納得できるのは、自分が年齢を重ねたお陰かもしれない。

家守綺譚 (新潮文庫)

家守綺譚 (新潮文庫)

りかさん (新潮文庫)

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春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

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