仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

ビールと温泉と面白いものが好きな大学生男子の母。

Facebookって面白いね。

Facebookって、人の素が出るねぇ。

人からの評価を受けてかまわれたくて、コミュニケーション至上な人は、みんなが「いいね!」しそうなのを徹底的に載せる。
面白い話。感動する話。数千とシェアされた話題。綺麗な写真。おいしそうな料理。ちょっとおちゃらけた笑いの取れる自分のエピソード。そして家族を愛してるアピール。親への感謝。子供、ペット自慢。友達と酔っ払ったり楽しそうにしている写真にタグ付け。みんながおもしろがってるアプリも速攻で試す。
おともだちも、同類ばかりだから、お互いに「いいね!」したり、「素敵!」「おいしそう」「泣けました……」というような個性のかけらもねぇコメントを残して、同じグループの中で延々と循環する。

そういう人を見ると、この人ら、「自分」ってのがねーんだな、と思う。
仲間たちと、同じ感覚を共有したい。
同じ感覚を共有するために似たようなことを見て、言って、シェアして……そうやっていくと、差異が減っていって。まるくなるよね。Facebook上の人格は。
あの、親指たててニカッとみんな同じ顔している、ありがちな写真の構成員の一人になる。


一方、他人はどうでもいいから、自分のことしか書かないタイプの人。他人が山のようにシェアしたものなんて見向きもしない。
Facebookに載せるのはあくまで自分のこと。自分のブログへリンク。自分がかかわったことへのリンクをシェア。自分が応援したいことへのリンクをシェア。アプリなんてほとんどやりません。
自分の興味だけで突き進み、まわりが見えない。
私は、こっちのタイプだ。


やっぱり、Facebookっていうのは、前者のほうの人が水を得た魚のように元気になる世界なんだろうな。
後者の人間は誰も読まないブログでもシコシコ書いて、自己満足してれば?ってかんじだ。


しかーし!
後者の人間である私も、いかにも「いいね!」一杯もらえそうなネタをFacebookにあげたくなるから、困ったものだよ。
違うわ、こんなの本当の自分じゃない!
他人の評価が嬉しくてにやにやするなんて。私は私でいいじゃないか!
でもFacebookは毎日の感覚に強烈に入り込んで、耳元で誘うのだ。
「美味しそうなケーキやけたじゃない、upしたら?」
「焼きたてのパンで朝食なんてすごい!upしたら?」
「ほら、綺麗な景色。ここはリア充自慢しないと!」
「可愛い息子。よその子の3000倍くらいは賢いよね。さりげなく自慢しちゃお!」


なんだろ、この、「汚い自分は垂れ流せない」「立派な自分をだしたい」感覚はtwitterにはなかった。
ああ、自分が自分でなくなっていく。
いやいやちがう。前からあった自分の二面性を……自分のことしか考えてない一方、そんなワガママな自分でも多少は評価されたいっていうまたさらにワガママな部分を……改めて実感せざるをえないだけだ。
表裏一体でもやっとしていた二面性が、ぺりぺりと、剥がれて、Facebookに吸い込まれていく。
私としては、ごちゃまぜのままで、ほっておいてほしいのに。
あー。


まぁ、メッセージとか、共同プロジェクトでのディスカッションや情報共有とか、そういうビジネス的面だけ活用すばいいじゃんと思いつつ。
垂れ流したい立派な自分が、うずうずする。
Facebookってさ。面白いよね。