仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

ビールと温泉と面白いものが好きな大学生男子の母。

お月さん、どうぞゆっくり沈んでおくれ。

精算ボタンを押す。ああっ!しまった。200円だ。仙台駅前の駐輪場、8時間までなら100円。しかしほんの1分オーバーして200円になってしまった。ついてねぇ。
17:30。こんな時間になってしまった。夕飯のネタもどこかで仕入れなければいけないのに、すぐそばの仙台朝市ではいまいち惹かれるものがなかった。ついてねぇ。
魚。焼くだけの魚が食べたい。
一刻も早く、家に帰ってごはんを作らなければならない。100円が200円だったダメージで、うなだれながら自転車をこぐ。
あの魚屋、あのスーパー、うーん、ルートから言って確実に入手できそうなのは、みやぎ生協だ。よし。
最近は滅多にみやぎ生協に行かない。貧乏になったら、高く感じるようになったからだ。それでも安めのものを選んでレジにならぶと、あ、今日はどんどんたまるスタンプキャンペーンの日じゃないか。
そういえばそういうものがあったっけ、と、しばし思い出にふける。2000円以上のお買い上げでスタンプ一個。なので火曜日は、2000円以上になるよう買い物をした。しかし今思えばなんと無駄だったんだろう。人間、大義名分があると無駄遣いをする。2000円ではんこ一個につられて、どれだけ必要でもないものを買ったことか。あの頃は、ものの値段がわかっていなかった。あの頃は、いくらでも毎月お金があると思っていた。
生協を出たら空がだいぶ青くなっていた。春の空気。この時期の空気がすごく私は好きだ。土が香り、生き物が生気をはなちはじめる。ふんわり暖かくて、湿っていて、春だよ春だよ、外に行こうよ、と誘っているようだ。特に夜は。ぼんやりした空気の中に、いろんなお酒や食べ物の匂いが混じって、戸口からオレンジ色の光を漏らしている、飲み屋街のたたずまいが瞬時に思い浮かぶ。あー飲みに行きたい……
悔しい。
こんな夜に飲みに行けない。明日もあさっても飲みに行けない。飲みに行きたいと思っている間に、春は終わるんだ。
自転車をこぐ。
町に背を向け、ごちゃっとした住宅街へ。春の風が体の側面を流していく。
帰って家族のためにご飯をつくらなければ。私には、飲みにいく自由もお金も、ないんだから。
しかし私は、ふと空を見上げて、月を見つけた。半月には細い、三日月には太い。うっすらと雲が表面を流していく。私と一緒に、お月さんも走っている。
そうだ、こんないいにおいの空気は、いくら吸い込んでも、タダだもんね。お月さん。そうか。せめて私は、この春の空気を楽しもう。夜の入口にさしかかったこの時間を楽しもう。お月さん、どうぞゆっくり沈んでおくれ。この気持ちのいい黄昏が、ほんの少しでも長く続くように。
自転車を、ほんのすこし、ゆっくりこいでみよう。
家に帰り着くのが、1分や2分、遅れたっていい。
どうかこの春の夜が、体にしみわたりますように。
深呼吸し、ぎゅるぎゅるぎゅるという、自転車のライトの発電部分の重たい音を聞きながら、家に向かう。ああ早い早い。もっとゆっくり。
どんどんあたりは暗くなる。さあ夜だ。主婦は怒涛の戦いの時間だ。ろくに仕事していないのに、疲れだけは毎日、いっちょまえにやってくる。18時をすぎると、へたりこんで立ちたくない。それでも、私はやらなければならないことがたくさんある。
ああ、飲みに行きたい。
空想の私は、羽が生えたように軽くて、どこまでも続く夜を泳いでいける。
お月さん、こんないい夜に、いつかあなたと飲みたいですね。
お月さん、いつかもう一度一緒に飲みたいですね。