仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

ビールと温泉と面白いものが好きな47歳、高校生男子の母。

ゆるいコミュニティの持続可能性を考える―「希望難民御一行様 ピースボートと『承認の共同体幻想』」

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

今更ながら読んだ。古市憲寿。若者代表みたいな存在。新聞に論説や対談が良く載ってるんだけど、読むと関節を外されたような気分がして、イラッとしてたんですよね…。私はもう若者じゃないので、合わないんだなぁこの人…と思っていた。
で、希望難民御一行様。タイトルからして皮肉に満ちている。イライラしながら読むことになるんだろうな、と思ったら違った。とっても面白くて楽しかった。意外だった。古市さんごめんなさい。あのイラッとくるかんじは芸風であり技だったのですね。
読んで見ると、私が継続して深く知りたいと思っている「コミュニティ」にもつながりがある内容だったので、とても興味深く読めた。

ピースボート」に乗り込む若者たちの研究(乗り込むのは若者以外も多いが、著者は研究対象を若者に絞っている)を通して、若者がピースボートという巨大なコミュニティに何を考えて参加したか、そしてそこでの長期にわたる共同生活の日々で何が起き、どう変わっていったか。その一部始終を知ることができる。
まず私は「ピースボート」に左翼的思想があったことも知らなかった。「9条ダンス」なんてものがあるとは。ポスター貼りで割引もしらなかった(誰が貼ってるんだろうって思ってた)。のんびり世界一周どころか、船内は忙しく、イベント続きというのも知らなかった。
著者はピースボートに乗り込み、実際に旅をする。すると、「怒る老人、泣く若者」と帯にあるような、そんな事件がいろいろ起こる。びっくりの連続だ。ピースボートって全然平和じゃない。大変だ。

著者は調査の過程で、「目的性」と「共同性」という2つの軸で、若者たちを4つに分類した。たとえばピースボートの理念に強く共感していれば「目的性」が高く、そんな理念に基づく9条ダンスなどのイベントに積極的に参加し連帯しようとすれば「共同性」が高い、そういうどちらの軸も高いのが『セカイ型』…、というように。船内での過ごし方、船内の出来事に対する反応、意識の変化…若者たちが分類ごとにそれぞれどうだったか、詳細に綴られていく。
そして……船を降りたあとの、若者たちの追跡調査もしている。こっちがむしろメインかもしれない。そこで「共同性」の高かった、船内で日々を満喫していたグループの若者たちが「あきらめ」て暮らしていることがわかる。かつて「9条護持」「世界平和」に強い思いを抱いて船内で過ごしていた「目的性」の高い若者が、もはや「目的性」が漂白されて「共同性」は高いまま、生きているのだ。乗船前より条件の悪い仕事についたりもしながら、時折集まって宴会したり、ルームシェアしたり、ゆるくつながっていくことに楽しさを感じて暮らしている。
まっとうな人生に必要な要素ー仕事、結婚、家庭、お金、地位etcーでそれなりのところに落ち着くことを諦めた若者たちは、「承認の共同体」の中で自分を見つけ出そうとする。ピースボートもそれだし、サブカル文化もそれだし、日常を見渡すと様々な承認の共同体がある。コワーキングスペースももしかするとそれかもしれない。「承認の共同体」というものが、「コミュニティ」の広義にも含まれると私は思うんだけど、コミュニティがあれば人は頑張れるし誰かに認めてもらえるし、それがきっかけで社会が変わるかもしれないし、みたいな、期待ってあると思う。だけどピースボートの経験を経た若者たちは「承認の共同体」の中で、あきらめることを身につけてしまった。ピースボートに限らず、さまざまな若者の共同体の冷却効果をとりあげ、そういうのに社会が期待している風潮に対して「若者をあきらめさせろ」と、希望のない話で終わる。

最後に解説で「ニートって言うな!」等の若者をめぐる労働問題の著書が多い本田由紀先生が登場。帯では古市憲寿といがみ合ってるようなポーズの写真になってるけど、解説文はどこまでも暖かい。研究成果を褒めつつ、違和感を表明する。
諦めた若者たちのコミュニティは、サステナブルなものなのだろうか、と。つまり、お金がなくても楽しくゆるく、なんて、そんないつまでも持続可能なものじゃないだろうと。
この指摘は、ぎくりとする。
そうなのだ。まっとうなルートを外れてしまった人間が居場所を求めて「目的性」がなくなって「共同性」だけになった仲間うちに居ついて、ゆるく楽しくても、先が見えないのだ。本田先生はこう述べる。生き続けていくためには「目的性」に相当するものを、何か持ち続けると、それがエネルギーになる。あきらめたふりを時にはしてもいいけど、あきらめるな、がむしゃらに歩き続けるんだ!と、熱いメッセージを若者に送る。お陰で、古市さんの本文だけだとやるせない気分で終わりそうだったのが、ちょっと体温が上がって読み終えることができる。(でも、そういうのを求めちゃうのも、若者じゃなくて中年だからなんだろなぁ)


…というわけで。
居心地のよい、お金もまともな仕事もない人たちが集まって承認を求めて作る「居場所」とか「コミュニティ」は、いろんな今の社会の欠けてるところを補完する存在として期待されてるけど、そんなにうまくはいかない。「目的性」がないと、ただの「あきらめ」の場所になってしまう。あきらめて、そんなにお金がなくてもゆるい繋がりを持ち続けて生きるのも、いいんじゃないの。でもそれは楽しいけど、持続可能なもんじゃないよ。
という、ゆるいコワーキングスペースオーナーにとって厳しい、当たり前っちゃ当たり前の事実なわけである。
「目的性」「共有性」の二軸は、コワーキングスペースを含むコミュニティにも応用できるだろう。実は試しに仙台のコワーキングスペースマッピングしてみたんだけど晒さないでおきます。
ノラヤなんかは、「目的性」がなく「共有性」は強いという、いちばんやばいパターン、いや、わかってたんですけど。
あきらめたふりをしながらも、なにか牽引していく「目的性」は、やはり必要なのかもしれない。まずはコワーキング文化を率先して周知しコワーキング文化を定着させたい、という目的はずっとあるんだけどね。そういう再帰的っぽい目的もありなんだろうか。達成されたときに次の目的を考えなきゃいけないけどね。