「どもる体」伊藤亜紗
どもる、吃音、という現象になんとなく興味があって図書館で借りて読んだ。この本についてはtwitterかなにかに流れていて知ってた。先日、ふと町中でこの本を持っていた人をみかけて(メガネをかけた若い研究者っぽい男性でした、ええ)、「あ」とピンときて図書館で予約してみた次第。
「どもる原因はなにか」「どうすればどもらなくなるのか」といった内容だと思っていたら、まったく違った。
どもるという現象そのものに、たくさんの当事者へのインタビューを通して、丹念に迫った内容だ。
自分と吃音は無関係だと思っていたけど意外と思い当たることがたくさんあり、「しゃべる」行為を考えることになった。
どもる現象の種類にも「連発」「難発」「言い換え」の主に3種類がある。
それぞれの現象の発生のしかたが違い、「言い換え」など傍から見たらまったくどもっていないようになるテクニックを無意識に使うようになると「どもり」の自覚がなくなるし、他人にも気づかれなくなる。
そして、どもりの発生しやすい条件が、人によってまったく違う。端に音(た行とか、「かんだ」「かただ」という組み合わせ)が理由だったり、シチュエーションだったり。
そして、驚いたのが、どもらない状況になる話。
リズムにあわせるとどもらない。俳優で、セリフを言って演じている時はまったくどもらない。朗読も。詩を読むとどもらない。そしてある人はプレゼンでどもりがひどくなるけど、また別な人はプレゼンの場合はどもらない……
そして、そうやってスラスラ普通に話せている状況は、決して本人にとって心地がよくないのだそうだ。本音がぱっと出ているのが「連発」でどもっている状態。演じたり、リズムに乗ったりすると、本音ではなくそれは演技であり、工夫を重ねてなんとか言えている状態で、体が乗っ取られているように感じることもあるという。自分が自分でないという。(そう感じない人もいる)
そういえば、知人の吃音がある人は、英語が流暢だった。脳内で英語に翻訳するという作業を通じていたからなのだろう。
すらすら言えると「どもりが治った」ように見られるけど、本人はどもらない工夫を常に強いられて、自分が自分じゃない状態になってしまう。それで、どもらない工夫をして吃音を周囲にも気づかれなかった人が、どもる自分を取り戻すというエピソードもあった。正直驚いた。どもってるのってつらそうだなと思ったし、流暢に喋れるのをみんな目指していて、そうなれたらハッピーなのかと思ったけど、そうじゃないんだあ。へぇー、と思った。
私もろくにしゃべれない人間で、人前で緊張せずに堂々と話せたら、というのは何十年も思っていることだけど(もちろんそれは小学校から社会人までずっと「声が小さい!」「きこえませーん」といつも言われていたからだ)そのスラスラ言える世界は思いのほか、居心地は良くないのだろうか。そういえば自分でうまくコントロールできなかったイベントが評判良かったりしても全然うれしくないので、それに似てるかもしれない。
改めて、しゃべるって高度なことなんだな、と思った。こんな高度なことなんだから、うまくしゃべれない人がいたって当たり前じゃないか。
私がこの本を実家で読んでいたら、母が表紙を見て、近所の吃音の人の噂話をはじめた。
「吃音の人って、どもれる時は辛くないっていう感覚もあるらしいよ」
と言うと
「そんなことないでしょう!いかにも、顔を歪めて、苦しそうに、してるじゃない」
というので
「この本によれば、そうとは限らないらしいよ」
と言うと、母は言った。
「でも、そういうの、見ているこっちが辛くなるじゃない」
なるほど。そういうことか。
吃音にしろ、私の声が小さくて喋れない件にしろ、他の人が不快だから、不便だから、なんとかしろ、というあくまで他者からの視点で指摘されるだけなのだ。そしてときおり、「かわいそう」というレッテルを貼られて。
そういえば前述の英語が得意な知人とは長い間一緒にいたので彼の吃音が当たり前に感じるようになり、打ち合わせで会った人に「あの人の喋り方(笑)」とこっそり言われて、むかっときた。別に彼はそういう人なだけだ、と思うようになっていた。
喋り方でもなんでも、いろんな人と一緒にいる経験は大事なんだよな。