仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

ビールと温泉と面白いものが好きな大学生男子の母。

「だらしない夫じゃなくて依存症でした」三森みさ

ウェブで見て惹きつけられ、本も買うことにした。予約して、やっと入手できた!待ち遠しかったよ。

酒に限らず、依存症入門としてとてもいい本です。 

だらしない夫じゃなくて依存症でした

だらしない夫じゃなくて依存症でした

  • 作者:三森 みさ
  • 発売日: 2020/03/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

私、前のブログにも書いたけど、これまでもアルコール依存症の本を読んだ。

monyakata.hatenadiary.jp

 

「だらしない夫じゃなくて依存症でした」(以下、「だら夫」)に比べると、この2冊はちょっとハードかもしれない。読んだ人が逆に「俺はこんなんじゃねーぞ」って思って見なかったことにしてしまうかも。

それに、この2冊との大きな違いは、主人公が当事者(アル中の本人)ではなく、家族であることだ。アル中の実態!とかでなく、回復の方法とその過程が中心になっている。

 

当事者もつらいが、家族はもっと辛いのは用意に想像がつくだろう。暴言や暴力を振るわれ、生活は困窮し、家庭も崩壊する。だが、このまんがはそういった現状に目を背けることなく、でも明るく、優しく、もちろん楽しく読める。

今、ちょっと酒の量が多いだけとか、ちょっとパチ屋通ってしまうだけとか、そういう状態の人も読んでほしい。そういう人が家族にいる人も気軽に読んでほしい。

 

「だら夫」の主人公ユリの夫ショウは、営業職についてから酒量が増え行動も酷くなりやがて仕事にも支障をきたすようになる。ユリの友人や会社の先輩が実はかつて依存症に苦しんだ人だとわかり、彼らが「完治」はしなくても「回復」していることで希望を見出したユリは、行動していく。

 

スリップとか、自助会や断酒会、家族会などは前読んだ本で知ってたけど、一層わかりやすいし、登場人物の気持ちが胸にせまってくる。

 

驚いたのは(前にwebで読んでいたはずなんだけど)、ショウのことを保健所に相談に行ったユリと相談員との会話。

旦那さんがお酒を飲んでいることで困っていることを書いて下さい、と言われて、ユリはスラスラとたくさん書く。

では次にユリがどんな生活を送りたいか、書いて下さいと言われ、「夫にこうしてほしい、夫がこうであってほしい……」と、またたくさん書く。それを見て相談員はこう言うのだ。
「山下さん(ユリ)ご自身はどうされたいですか?」
「えっ?夫にお酒をやめてほしいですけど…?」
「もちろんそれも大事なのですが。山下さん自身が
『○○に旅行に行きたい』『数年後こんな仕事をしてみたい』……などはありませんか?」
「私が…………?…………やりたいこと?」 

ユリは逡巡したあげく、答える。

「わ……わからないです…………………」 

 

これをまったく同じ体験をしたのだ。少し前。

私もどうしても辛い状況になって、とあるところに相談に行った。その時に「どうされたいですか」と聞かれて「相手にこうして欲しい」としか出なかった。

やはり「あなた自身はどうしたいですか?」と聞かれた。考えて、驚くほど、なにも思いつかなかった。

「……………特に、ないです……」

と答えてしまった。

 

そう、追い詰められた家族って、やりたいことが消失してしまうのだ。自分の頭の中が今目の前に常に晒されている問題でいっぱいになって。

やりたいことはたくさんある。

実はそれを忘れないように、Evernoteにリストを作って、少しずつ実現したり増やしたりしていたのに。しばらくそのリストの存在を忘れるような精神状態になってしまう。

とにかく、一人で全部抱えないことが大事なのだ。

依存症の回復には孤立しないこと、支える周囲の存在が重要と、あらゆる本でイベントでwebで繰り返し伝えられる。

顔見知りに「助けてください」と言いづらいのは当然なので、相談機関や匿名の自助会がある。(そっちの方が専門家がいるから、下手に知り合いに言って逆効果のアドバイスされたり、お前が悪いと責められたりするよりいい。まんがにも身内に辛いことを言われる例が出てくる)

 

もちろんまんがだから、展開は早いし多少都合のいいところもある。なにより、現実の周囲はこんなに理解があり暖かくないだろう。でも、この本を読んだ人が、優しい「周囲の人」になればいいと思う。そういう意味で、特に悩んでない、ごくごくふつーの人にこそ見て欲しい気もする。

本は大幅に加筆され、参考資料も充実しているので買って欲しいですが、まずは、こちらから。

www.jiji.com

 

さて、わたしも、やりたいことをしよう。

ビールが失われた世界

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ビールを自宅で飲まなくなって1ヶ月以上経った。

ただの嗜好飲料350mlをやめただけじゃねーか。最初の3週間はけっこう平気だった。楽なもんだ。これだったら一生辞めてもいいな。

ところが。日が経つにつれ、ビールに結びついた生活のさまざまなものの多さに気づき、それが失われた日々を過ごしているもの哀しさを感じるようになった。

 

 

元アル中のコラムニスト小田島隆さん著「上を向いてアルコール」を、以前読んだ。

その中に酒を絶った後の世界を、「4LDKの部屋に住んでいるのに、アルコールのある部屋2部屋に入らず残り2部屋だけで暮らす気分」というように表現していた。

今はとてもよくわかる。

たとえば。チータラ、ビーフジャーキー、ポテトチップス、柿の種、バターピーナッツなどの塩っぱいスナック。 これを買って来る時は自動的に「ビールとともに」と思っていた。飲まないので、全然買わなくなった。

料理もそう。アヒージョ、牡蠣のオイル煮、生ハム、ジャーマンポテト、大きなフランクフルトにザワークラウトマスタードを添えたもの。チャーシュー。これまでビールとともにあった料理たちが、とたんに色あせた。そりゃ、おかずとしてごはんと一緒に食べればいいけど。なんだかちがう。私は反省した。これまで、自分はビールを飲んで、こういうつまみ系料理をごはんのおかずに出して、度々息子に「酒のつまみじゃねーか!」と文句を言われていた。息子の気持ちがよくわかった。すまんこれは酒のつまみだ。

餃子や焼き鳥、麻婆豆腐、唐揚げ、アジフライ。ごはんのおかずになるこれらの料理も、やっぱりビールとともに食べたい。おいしいよ。おいしいんだけど、なにか、さみしい。

結果、食べ物の選択肢が、かなり減ってしまったのですよ。

 

寂しいといえば、夕暮れにビールがないのが寂しい。

私は綺麗な夕焼けを見た時、綺麗な季節の移り変わりを見た時、

「ビールとともにこの景色を見たい!」

と思うのだ。わかってくれるだろうか、誰か。短い時間しか訪れない、自然現象と季節の美しさを祝福したいこの気持ち。

そんなこといって、たいてい他に家事だのなんだのやって、ビールを実際に飲むのは夜になって落ち着いてからになるのだけど。

それでも、夕暮れに「ああ、ビール飲もう」と思って、冷蔵庫においしいビールがあるという、それまでの時間はとても幸せなのだ。

そのほかにも、ふわっと日常にやってくる、ビールな気分とでも言ったらいいのだろうか。

今日はいい日だったからビール飲もう。

嬉しいことがあったから一人祝おう。

がんばって10km走ったからビール飲もう。

お風呂から上がったらビール飲もう。

ビールな気分をつかまえて、大事に育てて、「よっしゃ飲むぞ!」って、ビールを飲む…それが、たまらなく好きなのだ。

しかし。今は、ビールな気分が湧いても「いや、今私飲めないし」と、それをしゅっとしぼめる。冷水をあびるがごとく。がっかり。さみしい。

夕焼けを見て、青空を見て、「あー、ビール」と思いながら感じる幸せ。今日のいちにちを幸せな気分でしめくくるビール。それが失われてしまった。

 

ちなみに、いつでもそういう素敵な飲み方していたわけじゃない。どうしてもガソリンが必要だから飲む、という時もあった。

一番多いのが、夕方飯を作る時だ。

この飯を作るのがたまらなく嫌でめんどくさいのが定期的にやってくる。体が疲れているからでも、仕事が忙しいからでもなく、なにをどうやってもモチベーションが上がらない。

そういうときは、(揚げ物など手先が鈍ると危険な作業は終わってから)プシュッと缶をあける。爽やかな香りを吸い込んで、喉を液体が通り過ぎて、「はああ」と、一息つくと、全身にじわっとなにかがみなぎって、ちょっとやる気が出るのだ。

「めしつくるの嫌い、死ぬほど嫌い、逃げたい」といいう袋小路の思考から抜け出し、「あの食材であれでも作ろうか」と、考えがポジティブになる。よし、音楽でも聞くか、とイヤホンをつける。そうやって、ようやく、飯が作れる。

しかし先日はそれができなかった。どうしても飯を作るのが嫌で嫌でしょうがなくて、ついに家族に頼んで弁当にしてもらった。家族は自炊主義者ではないので喜んで近所のお弁当屋さんのからあげ弁当を食べた。この時の出費は自分のこづかいである。ああくそ、金がかかる、と思いながら自分はラーメン屋にラーメンを食べに行った。缶ビール一本なら200円前後なのにこの時の出費は1500円である。

ビールって、飲むと「ようこそビールの世界へ」という風に世界が変わる。「ああ、来たかったよ、やっと来た」というときもあるし、「嫌だから逃げてきた!」というときもある。私はビールの世界の住民になって、ほがらかに幸せに生きるのだった。

 でも、その世界への扉は、今は、パタンと閉じられている。行こうと思えばいけるけど行かない。

 

さて、ビールを飲まないことで得られたものについても言及しておかなければ。

実際、飲まないメリットはとても多い。

自宅で飲まないことにしたら「夜、思い立ったらいつでもバイクに乗れる!」と気づいた。当たり前だ。前は、飲んだらその日は閉店!で、体も脳も動かない。世の中には飲みながら知的作業ができる人もいるらしいが、私はできない。飲んだあとの時間は飲んで食って寝るしかない不自由時間なのだ。

急に欲しいものがあるとき、バイクにまたがってさくっと買えるわけだ。便利だ。

そういえば飲んだ翌日はどうしても体の動きが鈍かった。習慣となっているトレーニング3セットをすれば体は起きるのだけど、やってる間がちょっときつい。

 

ビールをやめてた理由の一つは勉強時間を確保することだ。今まで酔っ払ってふわふわしていた時間に、私は簿記の勉強をガリガリと進めた。

SNSで無駄口を叩かなくなった。スマホからSNSのアプリも消しているんで、気軽には書けない。

そして、酔っ払いがすごく「バカ」に見えてきた。

酒を飲んでグダグダ崩れている人を見ると、心底くだらないと思うようになった。

酔っ払いがバカにみえるということは、飲んでない私が賢く思えてしまうのだ!この優越感は素晴らしく気分がいいぞ。

  

ただ、ストレスがたまるようになった。

息子の受験、自分の資格試験、バイトをやめたことによる環境の変化、(そしてもう一個最大のストレス源、今は書けない)、そういうストレスを、「気合い」「気力」だけで乗り切れるほどの若さと体力がないのですよ。

ビールを飲まないなら、ちゃんと別の幸せになる手段を用意して、定期的に摂取するようにすべきだった。そうでないと、一番手軽な幸福にひたることになる。それは「食べ物」である。せっかく美しい体型を維持しているのに。立ち仕事をやめた運動不足も相まって、悲惨なことになりそうだよ。

幸せマネジメント、だいじだよなぁ。金もかからずどっぷり幸せになれる方法を用意しとかないとダメなのだ。これは今後も気をつけたい。

 

ダラダラ文章を書いているうちに、ビール解禁の前日となった。

なんだかんだ言って、長かった。明日が楽しみだ。

なんとなく想像はつく。

飲むと、「あーおいしい。でもこんなもんだっけ。私があれほど渇望していた飲み物は」と、なるんじゃないかな。

どうでもいいパンツ

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どうでもいいパンツ。

というジャンルのパンツが、私にはあるのですが。

この場合の「どうでもいい」は、二重の意味を持つ「適当」という言葉に近い。その場その用途に適切であり、かつ特に限定もしない投げやりな感じも含む。

 

面倒だが我々女性はパンツとブラジャーを着用しなければならず、ふつう、同じデザインで合わせるらしい。バラバラに売ってはいるが、セットにもできる。私も可能な限り合わせる。

しかし、なんらかの理由で「ずれ」が生じること、ないですか?

 

このブラジャーに合わせるパンツが、いまちょうどない。洗えていないとか乾いていないとか、先に劣化してしまって捨てたとか、なんかよくわかんない理由とか。そんなときに「どうでもいいパンツ」の出番だ。

どうでもいいパンツのデザインは、あくまでシンプル。色は汚れが目立ちにくい、黒とか紺とかボーダーとか。レースはあってもなくてもいい。へそまであるハイライズなど、ダサすぎるのは自分で見て落ち込むので避ける。

そして、履き心地が重要だ。ブラジャーとセットのパンツは、パンツというよりショーツと呼ばねばならないような、繊細なレースとポリエステルのつるっとしたかんじ。もちろんそういうのを履くのも気持ちいいんだが、どうでもいいパンツは、綿100%であって欲しい。かといって、オーガニックコットンで徹底して肌触りを良くしました、なんていう優等生高級パンツは求めていない。ぶかぶかではなく、ほどよくフィット。

とにかく、履いて「ほっ」とする感じが欲しい。かつ、パンツ単体でそこにあって、がっかりしない程度のデザインであってほしい。

どうでもいいくせに注文がうるさいが、さらに重要なのが値段だ。

どうでもいいパンツだから、安くなくてはいけない。絶対1000円超えてはならない。正直500円も超えたくない。

まず思いつくのがユニクロだろう。だがわたしはユニクロのパンツは何度か穴があいてしまったので、避けてる。

シンプルで丈夫といえば、無印良品もいいかも。10%オフのタイミングで買えたらね。

 

さあどうでもいいパンツを買おう。

私が向かうのは、イオンだ。

ワコールやトリュンプの華やかなエリアをくぐり抜け、イオンオリジナル商品の棚へ向かう。そこに、2枚で税込み968円のパンツエリアがある。

これぞ、素晴らしき、どうでもいいパンツだ。

デザインもカラバリも豊富。個人的にはもっと派手な色のものもほしいけど。

でも本当にいちばん目的にかなっているのだ。そして何年経ってもなくならない。ありがとう、イオン。これからもわたしのけつに寄り添ってほしい……

ふとタグを見たら、イオンのパンツは綿100%ではなかった。あれっ?そうなのか?綿にしてはふわっとしてると思ったら……でも、いいのだ、肌触りがいいから。

 

どうでもいいパンツ。ブラジャーとセットのパンツがないときに、私を助けてくれる。

ランニングのあと、スポーツ用のショーツを脱ぎ、シャワーを浴びて、どうでもいいパンツを履く。心地よい筋肉痛をやさしく包んでくれる。

温泉に行ったら、ゆあがりに、どうでもいいパンツだ。

具合が悪くて寝ている時も、やっぱりどうでもいいパンツがいい。

 

私にはささやかな夢がある。

どうでもいいパンツを履いて、上はユニクロのブラトップか何か、その上にゆるっとしたジャージのワンピースを着て、部屋をあったかくして、1日、ごろごろするのだ。

今、私には自分の部屋というものがない。寝室もないから、ごろごろする場所もない。

独身の時は、休みの日にごろごろしようと思えばできたのに。

なんだかんだと用事や家事に手をだして、のんびりしてなかったんだよなー。

いつまでもあるとおもうな、ごろごろ環境。

だから、ごろごろするとしたら、ビジネスホテルや旅館に一人で泊まるしかないのだ。温泉旅館に泊まってさあ、好きなだけごろごろしたいよな。

どうでもいいパンツは、解放の象徴だ。

それを履く時、わたしはちょっとだけその夢に思いを馳せる。

優しさは暇でできている

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以前息子と会話していて、息子は「俺が優しかったのは暇だったからだ」と言った。

ちっちゃい頃から息子は「優しい子」だった。年下の子の面倒をよく見て慕われていた。中学高校と思春期を経て気がつけば「優しい」と思うことがなくなった。思春期にピリピリするのは仕方ないとして。ふとそういう話をしたら、息子が「暇じゃなくなったからだ」と言った。勉強だの部活だので余裕がないと、優しくなんてできないという。

これは真実だと思う。

だれかに優しくするためには、心の余裕が必要だ。

ずっと生活が苦しかったり、誰かを憎み続けたり、ずっと後悔しつづけていたり、とにかく、日々をこなしていくだけで精一杯のときに、優しくはできない。他人より自分を優先しないと生きていけないような、そういう状態だと、誰かをおもいやるまでに気持ちが至らない。

ときには、悲惨な状況でありつつ優しい人もいる。そういう人を見ると立派だなぁと思うし人格者だなぁとも思う。

でも結局そういう人も、余裕をなんらかの手段で手に入れているのではないだろうか。はたからみるとものすごく大変でも、心の中に凪のような平静を、ときどきでもいいから、すーっと、持てたら。そうしたら優しくなれるのではないか。

どうしたらそれは手に入るのだろう。

人によっては宗教であったり、愛であったり、瞑想であったり、無我夢中になれるものであったり。

 

映画や演劇を見たあと、もしくは本やアニメにすっごく没頭した後。

妙にニヤニヤしてふわふわすることがある。

あ、私いま絶対へんな人だなぁ、おかしいよなぁ。でもなんだろうこのいい気分。いつまでも持っていたい。

そういうとき、人に優しくできるような気がする。

誰かの人生や体験に憑依して、今の自分の抱えているのを一旦捨てて。いや、捨てはしなくても、客観的にちょっと遠ざけておいて。

そうやって心に「暇」を作る。

ときどき、そうしたほうがいいのかもしれない。

コインランドリーはいいな

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最近、洗濯物は自宅の洗濯機で洗ったあと、コインランドリーの乾燥機で乾燥させている。3回分の成果物をゴミ袋につっこみ、自転車の後ろにゴム紐でくくりつけ、自転車を漕いで3分。愛用のコインランドリーに持っていく。

  

洗濯物干しは、つらい。週に2日、3人分のたまった衣類を洗濯する。洗濯機を回している間は他のことができるのでよいが、干す作業が辛くてたまらない。干すのに先立って、まず、乾いた洗濯物を洗濯物干しやハンガーから外す作業をしなければならない。そのとき乾いていないものもあったりするから、確認しつつ。干す場所ができたらようやく、濡れた洗濯物を干していく。シワを伸ばし、絡まりをとき、裏返しになってるのを直し、靴下はペアにして…小物は小物干しに。シャツやTシャツはハンガーに。面倒な単調作業の繰り返し。

あまりに辛いので「手伝って」と言う。家族もこの作業が大嫌いらしく、たいてい不機嫌になって怒りながらやる。イライラされるのが嫌なので、結局手伝いを頼まなくなって、私一人でやるようになってしまった。

まるで罰をうけているかのような気分で延々と洗濯物を干す。干し終わったら疲れ果てて寝たくなる。

はためく洗濯物はしばしば幸福な生活の象徴として描写されるが、それは男性の感覚だろう。私は見るだけで疲れる。

私はその作業にどれだけ時間をかけているのだろうか。

ふと思いついて、測ってみた。干されている乾いた洗濯物を外す時間も含む。

なんと、干し終わるまで30分もかかっていた。

30分もかけて干しても、その洗濯物が乾くのは、何日かしてからなのだ。むなしい。なんだかすごく馬鹿らしくなった。もちろんうちには浴室乾燥機などというものはない。

だったら、コインランドリーで乾かそう。お金かかるけど。吊るしたりハンガーに通したりする作業が不要の上に、40〜50分後にはもう乾いているのだ。

 

というわけで、コインランドリーの乾燥機を使うようになった。

おもいがけないことに気づいた。乾燥機のとびらをあけると、ほんわかと幸せを感じるのだ。一瞬だけどね。

乾燥機のとびらをあけた瞬間、あったかい空気が溢れ出てくる。手をつっこむと、完璧に乾いた洗濯物のやわらかな感触。冷え切った指先がたちまち、暖かさに包まれる。タオルや衣類を一枚一枚取り出して、軽くたたんで、またゴミ袋につっこむ。洗濯物を干す時の重い気分と違って、こっちの作業は軽い気分になる。持ってきた時にはあんなに湿って冷たくて重かったものが、こんなにあったかく軽くなった。

できればこの洗濯物の山に顔をうずめたい。ああ、文明の利器はありがたいなぁ。

 

私が使っているのはいちばん近所のコインランドリーで、築数十年の4階建てのアパートの1階に併設されているところだ。

昔ながらの縦型洗濯機が4台、うち1台は壊れて修理されないまま。乾燥機は2台。

古いし薄暗い狭い。どっかの公園から持ってきたような木のベンチが2つ。その足元には薄汚れた缶の灰皿も置いてある。奥にはアフタヌーンなど青年向け週刊マンガが数冊、これまた年季の入った棚に置いてある。それでも、管理者か大家さんが1階に住んでて掃除しているらしく、ゴミが散らかっていることはない。お正月には鏡餅も備えられていた。

 

いまどきのランドリーはもっと明るく、広く、空調もWi-Fiもあって、カフェが併設されてるなど充実しているらしい。そういうところもあることはあるんだけど、そこに行くには重い洗濯物を載せてすごい坂道を登らなきゃいけないし、このボロいランドリーのほうが近い。そもそも時短のためだし。

それに古くてボロいところはなんとなく好きだ。

なんてことをいいつつ、めっちゃ綺麗なランドリーがもっと近所にできたらそっち行くだろうな。

 

そういえば忘れていたが、かつて乾燥もできる洗濯機を所有していた。息子が布おむつだった頃にたまに使ったが、頻繁にブレーカーが落ちる。アンペアをあげられない借家だったので、どうしてもという時以外使わなくなった。水分を大量に含んだ排気がそのまま室内に出ないよう水冷する機能もあったはずだが、あまり効果は感じられなかった。

思えば、当時は洗濯物も少なかった。しょせんこどもサイズ。今は大の大人3人前である。冬は着用する枚数も増えるから、たいへんなのだ。

一回500円。冬だけだし。

 

幸い今まで、洗濯をする日に雪や雨に降られていない。自転車かバイクでないと洗濯物は運べないので、悪天候の日はこの技は使えないだろう。それが難点。

ただ、いずれ、個人で洗濯機や乾燥機を所有するのは少数派になっていくように思う。コインランドリーにはこれからもお世話になるだろう。ちょっとだけ幸せも味わいたいしね。

「退屈すれば脳はひらめく」

スマホSNSもやめましょうやめましょう。バカになります。

……という極端な本ではないですが、改めてスマホSNSとの付き合い方を考えるきっかけになりました。

 

スマホとネットがあれば、いつでも誰とでも繋がれる。いいね!を送ったりもらったりで承認欲求も得られる。

そんなのにちょっと疲れてしまった。 

退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放す

退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放す

 

スマホのおかげでいろんな人と繋がれた、仕事ができた、コミュニティに繋がれた。

在宅勤務もOK、リモートワークバンザイ、テレワーク最先端すごいね。

なんでもググれば解決。

 

で、スマホ以前はどうやって暮らしていたかを忘れてしまった。

 

 

常に繋がっている快感が、快感でなく当たり前、日常になってしまっている。

あらゆるものがバックグラウンドで処理され、並行でことがすすむ。

疲れるじゃないか。

疲れるのいやだよ。

ノラヤもなくなったから「常に情報発信しなければ」のプレッシャーも、いまは、ない。

 

「脳がひらめく」ために自分の行動を変えるつもりはさらさらなかったけど、「あ、でも、べつにいいか」と魔が差したような気分で、アプリをかなり整理した。

FB起動はすぐできないようにしたし、通知も来ないようにした。「いいね!」した多くのページにいまや興味がなくなったので、いいねを取り消すかフォローをやめた。

twitterはアカウントをスマホから消し、必要だったらPCからやるようにした。(というか、最近twitterがちょっとこわい。自由に書けなくなってきた)

Instagramは、ある一つのビールのお店がInstagramしか使わない方針なので入れていたが、そこに行く機会もいっこうに訪れないため、やめた。

ていうか、禁酒中だし。

 

繋がりなくなれば、それはそこまでの関係ってことで。

 

 

誰かに見せるためでも拡散してもらうためでも「いいね!」や「うけるね」をもらうためでもなく、ただ自分がやりたいから行動していた頃に戻ってみる。

いいんじゃないかな。

禁酒(?)してみる

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1/4はArgon Brewingの一周年でお得だったので飲みすぎるくらい飲んでしまった。ビールは相変わらず素晴らしくおいしくて、IPAのふわっとした香りが何日たっても蘇る。しかし、これで心置き無く禁酒ができます。

というわけで禁酒(?)です。

といっても、月に2日くらい飲みにいくのはOKにします。自宅でのビールその他をやめます。

 

理由?大きく2つあって。ひとつは願掛け。

息子が大学受験ですよ。好きなものを我慢して、息子が万全の体制で受験できるようにしなければ。私も簿記の資格をとろうとしています。頑張ってる人がいるし私もがんばんなきゃいけない。

もう一つは、やっぱりアルコールの害が気になるから。

なにかしながら飲むというのがよろしくないなと思うようになったから。飲みすぎの人を注意するのに自分が酒飲んでちゃ説得力ないからねぇ。

そんなこと言って。外じゃあ、がんがん飲むってことでしょ?

と言われそうだけど、そのようなお金の余裕はありません。

 

2/26、国公立前期入試が終わるまでは、そういうことにします。

これまでも週に3日は飲まないようにしてきた。それが週に7日になるだけだ。えー?…うーん、ちょっと辛そうだな。でも決めたのは昨年だ。

年々と酒には弱くなってきているので、自宅で飲む時も350缶一本だけなんだけど。飲まないほうが勉強もはかどるし、ランニングにもいく機会が増えそう。

そんなかんじ。宣言でした。