音楽をきく場所を変えてみる
音楽を聴く。
好きでどうしても手に入れたいと思う曲はiTunesで買うし、そこまでじゃないけど好きな曲はSpotifyのお気に入りにして流れるのを待つ。あのうっとおしい広告に耐えつつ待つ。お金稼げるようになって余剰資金ができたらプレミアムにします…
買った曲の一部はランニング用のプレイリストに入れて、イヤホンで流しながら外を走る時聴いていた。走ってる途中くじけそうなとき、励まされて、なかなか良かった。
だが、「外をランニング中に音楽を聴くなんて言語道断。周囲に注意が払えなくなり危険だ!音楽聞きたいなら室内で走れ」という意見があることを知り、それもそうだなと思って止めた。
ただ、ランニング用プレイリストは励まされる曲リストでもあるので、他のいろいろなシーンで聴いている。
音楽って、聞く場所によって受ける感じが変わってきて、面白いな、と最近ようやく気づいた。
これまではどっちかっつーとこちらが音楽を場にあったものを選んで聴いてた。
カーシェアで車を借りて運転する時、Bluetoothでスマホをカーステレオに繋いで曲を流す。ドライブで聴いたら気持ちいいだろうなという曲を選んで。
イヤホンしながら散歩しつつ聞くのは、夕暮れ時に聞きたいなと思っていた曲。
お風呂では、癒される音楽を聞く。
疲れた時にどうしても料理とか洗濯とか、大嫌いな家事をしなければならないときは、お気に入りリストの曲を流す。これでちょっとは楽しい気分になれるだろう。
でも、なんだかそう狙ったほど、ぴったりじゃないな、なんて思ってもいたのだ。
そして、思いがけない時に流れた曲ほど、心を揺さぶられるんだよな。
先日。なんとなく、イヤホンを耳につっこんで、なんとなく曲を再生して、歩き始め、曲が流れ出した瞬間。
「あれっ、この状況でこの曲流れるの、いいな!」
と、これまでその曲を聴いていて感じていた気分と、ちょっと違う気分を味わった。それが新鮮だった。
この状況、っつったって、特別なわけじゃない。大事な仕事に出かけるとか特別な用事に行くとか生命の危機とかでもない。なにげない日常だ。だったのに、それがちょっと音楽で彩られた。
その、新鮮だったということだけ覚えてて、何の曲だったかすらも実は覚えてないんだけど。あまりにはっとしたので「これは後日ブログに書こう」と思ったのだった。そして今書いている。
自分の中で「この曲はこういう曲」って、何度も聴いた上で、既にこちらの受け止め方が定まっている曲、あるじゃないですか。
曲に対して、こうだ、って、決めつけ過ぎてたかもしれない、と思う。
「励ます系」なんてまとめちゃうのもそうだし。「異世界に行く気分になれる曲」とか「憧れの人に近づく決意を固める曲」だとか「1日の終わりに聞きたい曲」とか「お風呂で聞きたい曲」とか。「どこで聴いてもいい気分になれる曲」もあるけど。
そうやって、「そういう気分になりたいから」と、曲を流して、流れ出したとたんに「あ、こういう気分」って心構えが決まっていたのだ。
でも、その心構えが心地よく破壊されることもあることを知った。
そうか、場所を変えたらいいのか。聞く状況を変えたらいいのか。
聞く場所によって、その時目にしていたものによって、漂っていた空気の匂いによって、肌全体で感じる雰囲気によって、違う。うん、これは今後試してみる価値がある。楽しそうだ。
「感じ方」だけではなく、「聞こえ方」が違うように感じる時もある。
「あれ、ここでこんな音が鳴っていたのか!」なんて、何十回も聴いたあとに気づくこともある。あれはなんだろう。精神状態か、体調か、わからないけど。
まあでもありがたいことだよね。
こうしていろんな状況で音楽が聞けるなんて、私が大学生の時は無理だったもんね。贅沢に、いろんなところで聴くことを楽しもう。
「遺体と火葬のほんとうの話」佐藤信顕
著者の佐藤さんを、twitterで知った。(@satonobuaki)
コロナで本当はもっとたくさん人が死んでいるが、隠されているんだ、火葬場が大変なことになっているらしいよ、というデマを現場からビシッと否定されていた。tweetを眺めて、この方の情報発信の姿勢がすごくカッコ良かったし、ちょうど自分自身葬祭業界が気になっていたのもあって、この本を図書館で借りてみた。
いやー、めちゃくちゃ面白い!
人の死にまつわることはおおっぴらに語ることはタブーとされているし、そう頻繁に人生で出会うものでもないし頻繁に出会いたくもないし。だからこそ遺体や火葬やお葬式に関連した話は、間違った情報が横行しているらしい。
たとえば最初に出てくる話題。「死体洗いのバイトって本当にあるの?」怪談レベルでしょ、と思ってたらこの話題、ちょっと驚きの結末だ。
人がなくなることについてこういうの聞いたことある、本当なのかな?という、風習レベルのものから生々しい遺体の状況についてまで、いろいろな謎について、解説してくれている。
人の死は美化したり感動を無理に作ったりするかと思えば、逆に怖がられ変な話にされたり酷い誤解が生まれたりする。
現場で実際にご遺体に向き合って葬儀をとり行ってきた方の話は本当に説得力がある。
自殺の話もある。自殺したらどうなるか、なにが起こるか、そして葬儀屋さんはなにをしなければならないか。死にたいと行方不明になって、心配して探した人たちをバカ呼ばわりして、結局今でも何してるんだかわからないが生きてる知人がいるが、彼に読ませたいと思った。誰にも迷惑かけない死なんてない。
元火葬場で働いていた方との対談がリアルで面白い。「赤ちゃんの骨を残すのが難しい」とか、思い至りもしなかった。ちょうどよくお骨を残すための加減も火葬場でやっているんだそうだ。これはみんなに知ってもらいたいと思ったのは、ペースメーカーとガラス。ペースメーカーは破裂して火葬場の人が怪我をするし、ガラス(服のビーズも!)は溶けてお骨にくっつくだけでなく、最悪火葬場の装置までダメにしてしまうとか!気を付けないと。あと骨付きの食べ物はいくら故人が好きでもお棺に入れちゃダメ。
このような葬儀のお仕事って本当に尊いんだなぁ、そして難しいんだなぁと思わずにはいられない。
葬儀屋さんに会ったことはあるが、表に出ている部分しか知らなかった。その裏にはものすごくたくさんの仕事があった。
科学的見地、死に相対する人々の心、社会・地域の風習、それぞれと折り合いをつけて最善の方法を探っていかなければいけない。「手順と段取り」と佐藤さんは表現する。長い時間準備にかけられるわけでもないし、一律の対応が可能なわけでもない。
ただただ、「すごいなぁ」と葬儀屋さんに尊敬の念を抱く本であった。
本の内容は、佐藤さんのYoutubeチャンネルの発信が元になっているそうなので、そちらもぜひ。本で読んでも、佐藤さんの言葉で語られるといっそう納得します。(とっても明るく元気な語り口なので、聞いてると気分が良くなります。オススメ)
ぬか床を捨てた
少し前。
1年くらい育てたぬか床(ぬかどこ)を、ついに手放した。
庭に穴を掘って埋めた。捨てた、というより、葬った。
ぬか漬けを始めたのは、きっかけは約一年前の知人との会話。酔っ払っていたのであまり記憶にないが、たしか居酒屋にぬか漬けがあったので彼が頼み「東北の人はあまりぬか漬け食べないね」なんてことから、彼の実家で漬けていたぬか漬けの話になった。
「みょうがのぬか漬けが、おいしいんだよ」
その居酒屋のぬか漬けの味は忘れたが、自家製ならおいしいに違いない。自分で作ってぬか漬けで一杯、をやってみたくなったのだ。
手間がかかるのは知っていたが、おいしいものが手に入る手間だったら惜しくない。
スーパーでぬか漬けを買って食べてみた。ふうん、こういうものですか。なるほど。
ネットでぬか床の作り方を調べて、作ってみた。しばらく成長期間をおいたのち、やがていい具合につかるようになった。
いろいろ試した。
みょうがはもちろん。
きゅうりもおいしかった。パプリカ、ピーマンもおいしかった。なすも。ズッキーニも。
アボカドがおいしいと噂だったのでやってみた。味より崩れてぬかと一体化して面倒だった。
ゆで卵はけっこうおいしかった。
豆腐を漬けるとクリームチーズみたいだときいたのでやってみた。何度かやったが豆腐でしかなかった。
大根。の、皮。かぶ。かぼちゃ。人参。白菜。あらゆるものを漬けた。
キャベツを千切りにしてガーゼに包むと、ザワークラウトみたいになって自分は天才かと思った。
ナッツを漬けたら、酷いシンナー臭がして、二度とやらないと心に誓った。
ぬか床を別に分けて、肉や魚も漬けてみた。
ぬかが減ったら、精米所に行ってもらってきた。お手軽にスーパーの「たしぬか」を利用することもあった。
塩を足し、昆布や煮干しも足し、とうがらしを入れ。そしてぬかを足し。
もちろん、毎日、かきまぜた。
暑い時は冷蔵庫に入れなければならなかった。
ぬか床はまぎれもなく生き物だった。
ひとばん経つとパンの発酵後のように、全体が二酸化炭素でふわっと膨らんだ。
放置するとすぐおかしくなった。水分が出過ぎたらリードで吸わせなければならなかった。
毎日のお世話はめんどくさかった。かき混ぜると手がぬかくさくなった。ぬか床をかきまぜたあとは、ぬかの油で、手がしっとりした。やわらかくぐちゃぐちゃしたものを1日1回触るのは、遊びの要素もあってちょっと楽しかった。
ランニングのあとに汗をかきながらぬか漬けを食べると不足したミネラルが全身に行き渡るような気がしておいしかった。
がんばってぬか床と共に生きる日々を肯定すべく、ぬか漬けの話題をSNSに投げたりした。
だが。
ある日、ふと、気づいた。
こんなに手間をかけ、がんばって、やっても、そんなにおいしいもんじゃないな。
こんなに苦労してまでやるべきことなのか。これは。
めんどくさがりの私が、毎日、時間がないのに、わざわざ漬けて食べてかき混ぜて、なんでこんなことしなきゃいけないんだ。そんな気分が増してきた。
そもそも。私はそんなに漬物を食べないのだ。
さらに、私以外の家族は、一切、漬物を、食べない。
毎日生成される大量のぬか漬けを、私が一人で消費しなければならなかった。
汗をかく時期ならまだしも、明らかに塩分多すぎだ。水に漬けて塩抜きをして食べたが、めんどくさい。
これは好みの問題で、好きな人は好きかもしれない。
でも、正直、そんなに毎日欠かさず食べたいほど絶品かというと、私にとってはそうではなかった。
いや、おいしかったよ。
肉や魚に漬けて焼いたのも「ほほう、なるほど」っておいしかったよ。
でも、せいぜい「なるほど」どまりなのだ。
工夫したよ。肉と炒めたり。おにぎりの具にしたり。
でも、どうしてもなんか、無理やり感が。
もちろん、「手作りのぬか漬けで一杯」も、やった。
やったけど、そもそもあまり好きでない食べ物を酒と一緒に食べてもおいしくなるわけでもない。
そういえばぬか漬けの乳酸菌が私のハード便秘に効くかもしれないという期待もあったが、ぜんぜん、効果なかったねぇ………別に健康にもならなかった。
冷蔵庫に野菜が入りきらないのにスペースを占拠するぬか床を見て、私の脳裏に「捨てよう」という言葉が浮かんだ。
数週間逡巡したあげく、ある日、別れを決意した。
ゴミとして捨てるのは抵抗がある。
借家の庭先に穴を深く掘った。大家さんの目を気にしながら。そして、ボドボドと流し込んだ。
さようなら。
そこには少し前までに、堆肥を作るためのコンポストがあった。畑をやめたのでそれもだいぶ前に捨てた。
ぬか床を捨てた後の地面は、なにごともなかったかのように、普通に雑草が生えている。
ぬか床がなくなった後は、別に寂しくも物足りなくもないし、それで人生に余裕ができたわけでもない。でも、ぬか床が目に入る時にかすかに感じていた「……ああ、めんどくせえ」という重い気持ちが消えた。
今、みょうがの出回る季節になり、みょうがのぬか漬けだけはちょっとおいしかったなー、と、それだけ思い出す。
いつかどこかの居酒屋で、みょうがのぬか漬けに出会ったら、頼むかもしれない。
そしてこれから貧乏になっていく私が、できるだけ低コストで栄養を摂取しなければと思ったときに、またぬか床を作るのだろう。大根の皮や人参の皮を漬け、ごはんとぬか漬けだけ、の生活。それをSNSにUpしてささやかな承認欲求を満たすかもしれない。
「ルポ 人は科学が苦手 アメリカ「科学不信」の現場から」三井誠
こちらはお知り合いの京大の先生がご紹介されていたので知った本。
科学不信、身近で重い問題だ。今まさに全世界を覆っているコロナウイルスの脅威に対し、専門家の方々が正しい情報を発信しようとし、医療関係者の方々もがんばっている。それなのに正しい情報は伝わらず、デマ、噂、コロナは風邪だとか言い出す人まで。そして次亜塩素酸水の話題もホットだ。空中に噴霧するのはコロナウイルスに効果がないだけでなく有害であると専門家が発信しているのに、必死になってそれを否定しようとする企業、人。
どうしても私は科学者の方々の方が身近にいらっしゃる環境が長いので、SNSでもそういった方々の呆れ嘆く声がたくさん流れてくる。
「理科教育が浸透していないからでは」という言葉も聞く。
しかし。この本を読むと、どうも人が科学に否定的になるのは、受けた教育や身についている知識のレベルが低い(端的に言うと、バカだから)ではない、らしい。
ええーっ。じゃあ、人々が似而非科学に騙されないよう、正しい知識を身につけるよう、サイエンスに触れる場所を、カジュアルに作ろう!なんていう、私のノラヤサイエンスバーなどの努力は無駄だったの?
……いや、私も思ってはいたんだ。サイエンスバーに来るのは結局最初から問題に対する興味関心があって知識があって、一般市民とはかけ離れている人たちだということを…
それでも日本はまだマシだ。トランプが大統領になって支持を得てしまう、その背景には強烈な「科学不信」があった。そして宗教を背景にした進化論の否定。UFOの存在を信じる人たち。
冒頭の、地球温暖化についての調査は衝撃的だ。科学的な知識があっても、それでも支持政党で考え方が変わってしまう。しかも知識が多い人ほど、その傾向が強い。知識イコール考え方、主義主張、じゃないのだ。
残念なことに、科学を信じたくない、そのほうが都合がいい人がたくさんいる。この本だと、キリスト教の福音派(進化論を否定したい)、石炭など一部の産業界(地球温暖化を否定したい)。科学のせいで食えなくなるわけだ。このへん、次亜塩素酸業界と同じだ。たばこ業界も同じだ。(以前たばこ屋さん向け新聞を見てあぜんとしたことがある。まるでたばこのおかげで健康を維持できるといわんばかりの内容まで…)
インテリの言う机上の空論なんて信じたくない。自分たちは実際に経験して実感することしか信じない。
そういう人は、けっこういる。なんとなくカッコいい響きがある。それじゃ自分だけという狭い視野でしか物事を考えられないじゃないかと思う。でもそれでいいのだろう、地球規模の問題よりなにより、まず自分が生きていかなきゃいけなきゃいけないんだから。
知識があっても、政治、宗教の背景があって信念で否定している人たちに、どうしたら、わかってもらえるのだろうか。
そこで最後の方に出てくるのが「伝え方」への取組だ。残念なことに、多くの専門家は伝え方のプロではないし、コミュニケーションに時間を取られるくらいなら自分の研究に力を入れたいと思うようだ。そしてコミュニケーションに熱心な研究者は評価が低くなるという。しかしその現状も変わってきた。正しいデータを伝え、それを拒否する人を「バカだなあなんでわかんないの」で終わらせず、その裏にある心情まで汲み取らないと伝わらない。
ここで紹介された内容を読んで私は「あれっ!?」と思った。
前に読んだ本。これで解説されている内容が出てきたのだ。
アラン・アルダさんは、ある講演で対立するものどうしのコミュニケーションについて質問されてこのように言っている。
「お互いに敬意を持たなければ、わたしたちはいったい、どこに行けるというのですか」
SNSでは日々、罵倒、諦め、無力感、炎上が広がっている。そこに「敬意」はあるだろうか。
「こんなの高校の生物やってればわかるだろう」
「簡単な計算すらできないのか?」
そういう言葉で、相手が無知を恥じて学ぼうとするだろうか。
敬意を持てない相手に敬意を持て、と言われても難しいのはわかる。だが、思わず見下し罵倒したくなるような人が、そうなった背景について、多少「なんか事情があったのかな」と考えるくらいはできるかもしれない。
最近「人は科学が苦手」でもあるけど、「人は科学が得意な人が嫌い」なんではないかなと思うようになってきた。
そして「人は嫌いな人が言うことが正しくても嫌い」。政府が嫌いな人は政府主導のことは協力したくないのではないか。新型コロナウイルス接触確認アプリについて「入れようね」と言ったら「こんなアプリ、政府が個人情報を収集するためにやってるかもしれないよ」と言う人がいた。IT企業の管理職もやっているエンジニアだ。そういうことが不可能ではないと知識があるが故にそう思う。で、もしそういう人が会社の上司で大きい声でそう言ってたら部下はどう思うだろう。そう言う人が父親だったら、子供はどう思うだろう。中立な評価がネガティブな方に動くのではないか。
結局近くにいる人の意見、いつもいるコミュニティの中で、人の考え方は影響される。だからこそ、時々は風通しをよくするべきだろう。
幅広い人と出会うべく、同じような人とだけ付き合わず、クローズドな場所で止まっていないで、動くべきなんだろう。
そうは言っても、このご時世じゃあなぁ。
布マスクを作って着用してみた感想
布マスクは正直簡単ではない。小物ってでかい物に比べると細かくて大変。誰でも簡単に作れる!という人は作れる人だから言うのである。
しかし使い捨てのマスクはどんどん無くなっていくし、仙台では相変わらずどこでも売ってない。布マスクの効果を疑問視する声もあるが、マスクが買えないなら洗えるマスクに頼るしかない。
幸い私にはミシンはある、糸はある、布もある、マスクに使えそうなゴム紐もある。そして洋裁を習った経験がある。なので布マスクを作ってみた。
2種類のマスクを作った
まず、手元の使い捨てマスクを採寸し、型紙を起こし、プリーツマスクを作った。ゴムは縫い止めるのではなく、マスク本体の端を3つ折にして中にゴム紐を通すようにした。
プリーツを畳むのが面倒で、アイロンをたくさんかけなければならない。この手間が大変だった。
ちなみに、プリーツがこんな形になっているタイプを真似した。複雑なタイプだったかもしんない。
そしてもう一種類、SNSで話題になっているHKマスクを作ってみることにした。
動画は工業用ミシンが慣れている人がだーっと作っているので一瞬で済みそうに見えるが、一般人はそうはいかない。
普通の人が作るときは、こちらのブログがすごく参考になる。
1作目:ガーゼのプリーツマスク
一作目は、息子が赤ちゃんのときにお祝いにいただいたガーゼタオルケットをほぐしてプリーツマスクを作った。布マスクと言ったらガーゼと相場が決まっている。
しかし、ガーゼはふにゃふにゃで、裁つときもずれるし、アイロンをかけてもプリーツの癖付が難しいし、ミシンで縫っていてもずれやすい。ガーゼはかなり難しい布であることがわかった。
一応、薄めたハイターにつけてすすいだあと乾かしたら、プリーツがほとんどなくなった。アイロンかけてもあまり効果なし…
でも、一応、マスクの体裁にはなっている。
(そして実はプリーツの表裏を間違えた)
2作目:HKマスク
ガーゼでプリーツが維持できなかったので、そもそもプリーツなどない、シンプルなHKマスクを作ることにした。正直、このタイプのデザインは、キャシャーンみたいであまり好きでなかったが。
ガーゼは肌に接する内側だけに使うことにして、手持ちの端切れを外側に使った。
曲線の裁断が、ちょっと難しい。いい加減に裁断すると、上下混乱する。
ミシンで縫う時もこの曲線が慣れてないと難しい。縫代1cm折り返しは、宇樹義子さんもnoteで書いていたけど、アイロン定規を使うと楽。アイロン定規はてきとうな厚紙で自作しておくと重宝する。
本来はゴム紐を縫いとめたあと、さらに横に紐を通し後頭部で結んでフィットさせるのだけど、それは省略してしまった。
ただ、耳にかけるゴムの長さがちょうどいいかどうかは、やっぱり一度使ってみないとわからない。そして、「やっぱり緩かった(またはきつかった)」場合は、縫い目をほどいてゴムを付け直さなければならないのがたいへん。
HKマスクのいちばんの難関はこのゴムのサイズ調整だと思った。
3作目:プリーツマスク
HKマスクと同じ布の組み合わせでプリーツマスクも作ってみた。ガーゼだけで作ったときよりしっかりしている。そしてプリーツがあるので、布がずれにくく、顔の動きにフィットする。「覆われている」感が強くて安心感がある。
4作目:プリーツマスク
この頃、「マスクは白でなければならないと会社・学校で言われた」というニュースを目にした。くっだらねえなと思いつつも、これから私が就職活動する上では白でないとまずかったりするかもしれない、あと、葬式に出たりするときも白があったほうがいいだろう。そう思ったので、白バージョンを作った。
息子が高校の理科の授業で着ていた白衣を外側の布に使った。張りのある布で、作りやすかった。
このマスクは、一度アイロンをかけると手洗いしてもプリーツが維持できた。白衣偉い。
余計な一手間
HKマスクで、マニュアルにはないけど、布端(布を切ったところ)が切りっぱなしだとほどけそうで心配という方は、1cm折って縫う前に、ジグザクで布端をかがるように縫っておくと安心。
センターの曲線部分を縫ったあとは、こういうふうに縫代に切り込みをいれるど、もぞもぞしません。(上記で紹介したnoteの宇樹義子さんもやっている)
あと、アイロンで縫代を割って、さらに1mm縫い目の両側をこういう風に縫うとぴしっと平になっていいよ。
使用してみた
※私の作ったマスクが医学的に感染予防に効果があるのかどうかはまったくわからないし確かめようもないので、あくまで着用感の話です。
スーパーかコンビニに買い物に行きついでに散歩する。そういうときはどのマスクでも特に問題はない。
ランニングのときやちょっと汗をかく時は、HKマスクのほうがいい。
マスクしているとやっぱ苦しい。走ってるときは人がいないとことにきたら、外したりずらしたりする。このとき、コンパクトなHKマスクの方が楽ではある。
そしてあっというまに湿ってくる。湿ってくると内側のガーゼが口にへばりつく。HKマスクだと、センターが立体的で外側へのカーブになっているためそんなにべたっとは付かない。ちなみに使い捨て不織布マスクだと、結露してびしゃびしゃになるので、湿るだけの布のほうがまだましなのかもしれない。
そして、動きによってマスクは、ずれる。ゴム紐がちょっとでもゆるいと、頻繁にずれることになる。このとき前述のようにHKマスクだと縫い直しが必要になるのだった。紐はじゃっかんきつめに調整しておくべきだと思った。
布は、ソフトな素材より張りがあるもののほうが、長時間形を保って快適だ。
そういうわけで張りのある布で作った緑の柄のHKマスクをランニングの時によく使う。
忍者みたいなので中年女性がするのは変だと最初避けてたが、結局使い心地がいいし、自分の姿は見えてないから人目など元々あまり気にしないたちなのもあり、愛用するようになった。
サングラスにこのマスクだと平常時なら不審者だろうけど、このご時世ではまったく問題ない。(と思う)
また、このマスクは使っている布が少ないので乾きやすい。 ランニングのあとは着ていたウェアと一緒にざぶざぶ洗って干してしまうと夕方には乾く。プリーツマスクだともうちょっと時間がかかる。
布マスクを使っては洗い、干して、使いまわしているうちに、気がつけば使い捨てマスクをまったく消費しなくなっていた。
スーパーでも布マスクの方をたくさん見かけるようになり、派手な色でも柄でも黒でもなんでも、普遍的なものになってきた。ほんの数週間で「普通」の認識は変わる。
使い捨てマスクの品薄もそろそろ解消されるのかもしれない。
マスクでファッションを主張する人も現れるだろうけど、一時的なものだろうなぁ。
もし今から自作するなら
布選びがポイントだと思います。顔に触れるものなので、柔らかく優しい素材を選びたくなりますが、はりのあるピシッとした布のほうがいいです。
また、縫う前に水を通して、乾かしてよれよれにならないことを確認したほうがいい。
そういうわけで、着なくなったワイシャツなどを活用するのがおすすめ。
縫い物って誰でもできるわけじゃない
最後に再度主張しておくと、マスクを自作して寄付するとか美談が流れてくるけど、誰でも簡単に作れるものじゃない。すごく手間なので、もし身近にマスクを作ってくれる人がいたら大いに感謝して、一枚につき缶ビール2本くらいは差し上げて欲しいものである。
3月、メンタルが死にかけた話
はじめに
大学入試及び入学までいくらかかったかの記録 2020年
日経新聞、「大学受験・入学に170万円超」ええー。入学「まで」の費用でこれか。内訳が知りたいな。
— さとかわ♨️ (@sato_kawa) 2020年1月6日
そんで反対側の紙面には予備校の案内がどーんと。
差し迫って参りました!!
息子が一人暮らしを始めたのを一区切りとして、これまでかかった費用を公開します。
入試から入学までかかった費用
入試〜合格までの部
- センター試験 18,800
- 私立出願 36,080円
- 国公立出願 70,133円
- その他 4,192円
合格してから一人暮らし始めるまでの費用
- 入学金その他納入 389,584
- 引っ越し運送費 36,300
- アパート契約関係 125,320
- 生協加入(+学食パス入金) 72,850
- 交通費(2回行った) 160,090
- 宿泊費 26,000
- 生活用品 91,934