仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

ビールと温泉と面白いものが好きな大学生男子の母。

2014年にやること / ひとはこうするものだから。に、囚われず。

2014年にやること。

  • マチオモイ帖に参加し、東京の展示を見に行く
  • ラビックス移転後、福島にxibbarさんを訪ねて行って餃子を食べる
  • クローズする前に秋葉原CEROさんに行く
  • 大宮の7Fに行く
  • 新潟に行って西村さんに会う

ほとんどコワーキング関係だね。


どうも、私がまずい状況になるパターンがわかってきた。
それは、「世間一般ではこうすると幸せになれるらしいからそうしよう」「普通はこうすると良いらしいからそうしよう」ということに、何も考えず(あるいは、しぶしぶ)従ってしまうときだ。
結婚も、「長年おつきあいしたら、そうすると大変幸せになれるものらしい」からそうしたけど、全然そんなことはないし。
結婚指輪も、全然する気も必要性も感じなかったけど、世間ではするらしい(というか、指輪をしている人たちが幸せそうで羨ましかったので)、夫に欲しいと言ってみたら、仕方なく買ってもらえたけど、いざ着けると、実は邪魔で不便なばかりで、しまいこんだまま。
子どもだけは、「つくるものらしい」と作ったら、大変よい結果であった。そう思えるまでに何年もかかったけど。


やはりこれは、「幸せ」の基準、感覚が「世間一般」「普通」と、大幅にずれているからだ。
だから、世間一般に合わせると逆につまらなかったり不幸になったりするのだ。


「こうするものらしい」と判断した中で最悪の決定版は、「女性は男性に養ってもらうものらしい」だ。「結婚して子どもができたら旦那さんに養ってもらえば世間では親も子も幸せらしい」と思っていた。本当に、私は、専業主婦しか結婚当時考えていなかった。仕事せずに生きられるなんて天国だし、ね。
しかし気がつけば子どもを育てながら仕事を再会して、いつのまにか、独立なんぞしている。
そして、稼げない稼げないと、ぶーぶー文句を言っている。
これでは、いけない。
どうも、覚悟が足りない。私の意識の根底に「やしなってもらうものだ」が、おそらく、染み付いている。
「俺に文句言うなら、30万稼いでみろよ」と、良く夫は言う。
家事と育児のほとんどをしょっていて、30万もかせげるはずもない。だが、その言葉から自由になるためには、稼ぐしかない。
「やしなってもらわなくても生きられるように」ならなければ、と思う。
いろんなことから自由になるためにも、そしてリスクヘッジのためにも。

40代は、ばんばん、死ぬリスクも病気のリスクも上がる。のんびりと「やしなってもらうものだ」なんて思っていたら、いつのまにか夫の介護をしていて、仕事も何もできなくなっているかもしれない。
ちょうど母が私ぐらいの時だ、父が病に倒れ、何年も闘病した末に亡くなったのは。母は100%介護のために何年も費やして、自由は皆無だった。幸い母は資格があったからその後我々を育てられたけれど。

「こうするものらしい」から、自由になろう。
自分が何をしなきゃいけないか、常識と慣習の分厚い壁をよじのぼって、越えて行こう。
2014年は、そうすることにしよう。