仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

ビールと温泉と面白いものが好きな大学生男子の母。

自殺に関する本を読んだ(1)「自死という生き方―覚悟して逝った哲学者」

前に上原隆著の「こころが折れそうになったとき」を読んで、自殺した須原一秀氏に興味をもったので彼の自殺までに書かれた本を読んでみたわけです。

「かなりしんどそう」と書いたものの、実はちょっと期待もしていた。この本の内容がものすごく説得力あって、納得の行くものであって、「そうか、私も自殺しよう!」という気分になるような、そんなすごい本だったら、それはそれで貴重な読書体験できるな、ってね。

ところが、期待はずれ。
全然違う意味でしんどかった。主張がいちいち、同意できないものばかりだったのだ。中身にすっと入っていけないから、読むのが苦痛でしょうがなくて、読み進むのに時間がかかった。活字嫌いなのでどんな本でもすいすい読めるわけではない。しょうがないから飛ばし読みした。
著者は、この本を通して世間の人に積極的に幸福のさなかで死を選ぶという選択肢があってよい、認めるべき、と訴える。たしかに自殺への世間の目はかなり特殊だ。だが、だからといって著者のように、死にたがりとして生き、自分が絶頂から落ちるだけと悟った時死んで行く、そんなのを潔いとか、あるべきとか、あってよいとか、どうしても思えない。
老衰で眠るように死ぬという自然死が理想と人はいうが、本当に苦しくないのか?傍で見ている分には眠っているようでも、本人はすごく辛いんじゃないのか?という意見については、私も同意する。体が動かせなくて表現もできなくて、意識があるとしたらけっこうきついだろうし、その時が来るのが怖い。苦しみの果てに死ぬなら、自死も含めてあっさり死ねる手段を選んだほうがいいんじゃないか、と著者は言うのだが、そこはやっぱり簡単に結論だせないんだよなぁ。
なんとなく同意できたのはそのあたりぐらいで、あとはなかなかすんなり主張を受け入れられなかった。それは多分、言葉の端々に、偏見や「見下し」が感じられる表現が多いからだと思う。周囲の老人、満員電車に揺られて会社に行くサラリーマン、夫がいないと生活できない家庭の主婦。なんかそういういわゆる平凡でひーこらひーこらと暮らしている、とても私に近い人達を、マイナスの例として持ってくることが多くて、率直に言うと、侮辱されているようでかんじわるいのだ。「こころが折れそうになったとき」でも書かれていたが、須原氏はいつもごきげんにくらし、大学の非常勤講師で家計は火の車だったけど、家庭の迷惑をあまり顧みず好きに楽しく暮らしていたようだ。伊丹十三の言葉として引用されていた「金色のおにぎりをぱくぱくと食べているような」幸せを感じていたのあろう。本の中では家族や周囲の人たちへの「死んだら迷惑だろうか、悲しむだろうか」という思いやりはほとんど感じられなくて、むしろ家族を泣かせても信念を貫くのが武士道、自分の自死は武士道にもとづいている、とばっさり。はぁそうですか、ひとを見下して、周囲へのおもいやりもなくて、自分は幸せいっぱいで、死ぬなら、勝手にしてくださいよと言いたくなってしまう。
著者のもくろみと逆に、死にたくなくなりました。あたしはこんなにいろんな苦労も困難も抱えてるんだから、死ねませんよと。
そして思ったのは、幸せすぎて「極み」に達してしまうのもまた、どうなんだろうなと。もしかして自殺と、本人が幸福かどうかって、そんなに関係なかったりして。
そう思ったら、次に読んだ「生き心地の良い町」に、関連することが書いてあったのですよ。
長くなったので、「生き心地の良い町」のレビューは次に。




追記:
レビューはこちら。
monyakata.hatenadiary.jp