仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

ビールと温泉と面白いものが好きな46歳、高校生男子の母。

「ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由」小林せかい

行こう行こうと思ってていけない、未来食堂の本の2冊め。図書館で借りました。

ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由

ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由

ちなみに一冊目のレビューはこちら。
monyakata.hatenadiary.jp

なお未来食堂はただいま店主のせかいさんが産休育休のためお休み中……だと思ったら復活していた!はえええ!産後なのに無理しないでえええ。

一冊目の内容がブログメインだったので、2冊めはさらに未来食堂について詳しく語っている。本の中に書かれていたいろいろな知見は、コワーキングスペースとコンビニという接客業に関わっている私にも身に覚えがあるものも多く、興味深いものだった。

ちょっと失敗談を話そう。
一冊目の本を読んだ時、「まかない」というシステムについて知った。飲食店経験の有無もなにも問わず、ただ一度利用してシステムを知っているという条件だけで、(やる気のないふざけた奴を一度だけ断ったそうだが)お店を手伝ってもらって、それで報酬のかわりに1食食べられるのだ。このまかないをしたくて全国、だけでなく海外からも「まかないさん(まかないに入る人をこう呼んでいる)」がやってくる。
そうやって面接もなにもなく、人を信頼してしまうのって、すごいなぁ、いいなぁ。素敵だなぁ。と、私は思ったんですね。

私はノラヤにいるときに、基本出られないんだけど、銀行行きたいとかコンビニ行きたいとか、どうしても人がいるときに外出したくなったとき、何度か「ちょっと外出してくるので店番してください」をやったことがある。
常連さんなら勝手を知っているので、気軽に頼めるのだけど、まだ常連とはいえない人しかいないとき。その時に未来食堂の「まかないさん」を思い出した。そして「思い切って信用してみようか」と思って、おねがいした。
外出して戻ってきた時は特に問題なかったんだけど。

その「信用された」体験が相手にとってすごい意味を持つことがあることに、私は鈍感だったんですね。「親しくなった」と、勘違いされてしまった。
利用者の少ないノラヤで、ほぼ一対一で接することの多いこの狭い空間で、勘違いされた人と過ごす時間は、かなり苦痛だった。

改めて考えてみると、ノラヤでの店番と「まかない」は、全然違う。
「まかない」はカレンダーにきっちり予定も組まれて報酬もありマニュアルもあり、毎日のように多数の人がいれかわりたちかわり「まかないさん」として働く。人を無根拠に信用してしまうわけではなく、ちゃんとシステムを整えた上で働いてもらっているのだ。
なんとなくその場にいた人にぽっと「頼む」のは、全然違う話。反省しきり、である。

それでも、「まかないさん」にイラッとくることはせかいさんでもあるそうだ。
残念ながら使えない人も来る。常識だと思っていたことが通じないことも。それでも、さまざまな人を受け入れることによって毎回新たな気付きがあり、そのメリットの方が大きいそうだ。
「気づいたところを掃除してください」とだけ指示すると、みんな気づくポイントが違うので結果的にいろんなところが綺麗になる、これは私もコンビニバイトで実感しているところだ。
また、使えない人が来た時のための単純作業を用意しておくというのも、参考になる。バイトでも応用できるし、普段の家事の手伝いを家族におねがいするときにも使える。

他に印象的だったのは、いろいろなエピソード。
あつらえをしてみたくてあつらえを頼む人がいて、もやもやしたりとか。
ただめし券しか使わないお客さんとか。

タイトルになった「ただめし」だけど、ただめし券、貼ってあったら使うかな、どうかな。と、考えた。
これは地域性もあるだろう。貧困層が多ければなくなるだろうし。県民性もあるだろう。遠慮の少ないエリアなら使うだろうし。
やっぱり私は、使わない気がする。遠慮深い東北人だし。常に貧民アピールしているけど外食できないほどじゃない。まぁ、外食なんてしてられない経済状態のくせに飲みにいったりしてるけど。
コンビニでトイレを借りたりしたら、そこで何か買い物するのが常識でしょ?と、以前twitterかなにかで見たんだけど、今はそういうのだいぶ薄れて来ている。私もトイレだけ借りて買うことほとんどない。

余裕があったら、恩送りをしたい。でも「余裕があったら」って言う人って、たいてい一生しないことも、うすうす知ってる。

とにかく改めて、未来食堂、行きたいし、まかないも体験したいと思いました。

安上がり人生

前のブログで「一人飲みがしたい」と書いたら、あっさり実現した。
実家から帰ってきて仙台駅で、新しくできたお店にふらっと入って、ビール飲んでたら同じカウンターの方がワインをごちそうしてくれて、それがきっかけで、同じカウンターに並んだ方々とおもいがけずお話することができた。楽しかったなぁ。
そして昨日も、思い切って気になっていたお店のハッピーアワー活用させていただこうと一人で行って、しっかり長居してしまった。ここでもカウンターでご一緒したジェントルマンな方にワインをご馳走になり。
なんだろう、この、おごられ人生は。
願望は、表現すると叶う。本当ですね。
ただ、こうも連続してご馳走していただくと、自分もいい年なんだから若い人にご馳走する立場にならねばと思う。ならねばと思うのに。


最近、息子のおさがりばかり着ている。気がつけば全身おさがりということもある。
少し前までメンズのSかMだった息子が、もうLでないとピチピチになってしまった。
まだまだ着古していないけど、絵の具がついているとか裂けた部分を自前で直しているとか、ちょっとリサイクルショップに売るのは躊躇してしまうもの。そういうのはもれなく私がもらう。
シュッとしたシャツとかありがたく着る。
そして、ついに、ジーンズも息子のおさがりを履けるようになった。

前から服が欲しい時はリサイクルショップ行ってる。
ただねぇ、リサイクルショップはねぇ、丈が短いのですよ。私、身長があるので、胴まわりにあわせて買うと高確率で足りない。ジーンズは長めの丈にして履く主義なので(バイク乗るので足首を保護したい)、困る。
それが、息子のジーンズを履いたら、ちょうどいい長さだった。ラッキー。
たしか前は履けなかったと思ったけど、多分お尻が痩せたからだろうなぁ。
一応、息子に「もらっていい?」と聞いたら「ハッwwいいんじゃね?」と言われたので履く。ありがたい。

普段着はそんなかんじだけど、走り始めたのでそっちにはどんどんお金が使われていく。
ランニングシューズとか、ウェアとか帽子とかバッグとか……でも、それで体型がスリムになって息子のお下がりが着れて健康になるなら、いいよね?
といいつつ、またランニング用にTシャツをぽちってしまった……

安上がり人生だと、自分では思っている。
でも、ただそれは、ひとがお金をかけるところにお金をかけず、ひとがお金をかけないところにかけてしまってるだけなのかもしれない。

最高の飲酒体験。

学生の頃から一人飲みをしていた。バブルの頃は異端扱いだった。
「酒は気の合う仲間とワイワイ飲むもの」
「一人で飲んで何が楽しいの」
周囲の酒好きを自称する人たちは、酒そのものより酔っ払ってワイワイするのが好きな人たちだった。当然、酔えれば酒なんでなんでもいい、という人がほとんど。今はみんなお酒を選ぶようになって、いい世の中になったと思う。いい世の中になったと思うが、私自身があんまり酒が飲めなくなってきいている。それは家庭をもったのと、金があんまないのと、読める量が減ってきたのと。とにかく「飲める自由」は減っているようだ。悲しい。

それはそうと。

幸せな飲酒体験、として、忘れられない1シーンがある。
あれはまだ、息子もいなくて、配偶者と一緒にはいたけれどアパート住まいで、一人だった夜。
その頃、私には私の部屋があった。その部屋で、テーブルにろうそくを灯した。
いつでも寝られるよう、別室にふとんを用意しておいた。

用意したのは、お刺身、ほか、いくつかのおつまみ。
そして、きーんと冷やした日本酒。思い切って買った、綺麗なグラス。
お気に入りの音楽をラジカセから流して、ろうそくのあかりだけで、ちびちび、酒を飲んだ。
ベランダがあって、窓から空が見える部屋だった。街灯は差し込むけれど、本が読めるほど明るくもない。

おいしかったなぁ。
幸せだったなぁ。


誰もいない。自分だけ。独り占めなのだ、大好きな空間を。


時々思い出す。あれ以上の幸せな飲酒体験はないと。
私にとって幸せなお酒は、誰かと一緒ではない。
たった一人、暗い中に、なのだ。


そしてあの体験は二度とできない。
たとえ私が独り身になって、窓の大きい部屋で、たったひとり、とっておきのおつまみを並べて、とっておきのお酒を用意して、ろうそくを灯したとしても。

私はきっと、そういうシチュエーションになったら、誰かにそれをシェアしてしまうと思うのだ。Facebookとかで。
その時点で、特別は、消え失せる。私はたったひとりではなく、多くの誰かの前にいることになる。
あのときは携帯もなかった。スマホなんて当然なかった。
だから目の前のお酒と食べ物に向き合って、じっくり、過ごした。

いまだって、そういうの使っちゃうの我慢すれば?…………できないだろうね。
幸せは孤独の中にある。それは、何かに真摯にたった一人で向き合う瞬間でしか得られないということなのかもしれない。

それはそうと。
おいしいお酒が飲みたいですねぇ………………ひとりで。

バスで隣に人が座りません

バスに乗る時ふたりがけの席に先に一人で座った時、ほとんど隣に人が座らない。どうしても混んで来てしょうがない事態になって、やっと誰か座ります。


別に困ることもないし、座って欲しいとも思わないのですが、なんでですかね。
ATフィールドでも展開してるんだと思います。おいら、誰ともつるむ気がねぇんだよ、あっちいけ、近寄ると危険だぜ、みたいな。顔つきが禍々しいのかもしれない。
見た目をあまり構わないんで、単純に不審なのかもしれないけど。


ところが先日。
とある飲み会に参加し、最終バスに乗って帰宅したときのこと。ほどほどに酔い、ふたりがけの座席の奥に座って、窓ガラスに頭をくっつけながらバスの揺れに身を任せてぼんやりしていたら。
どかっ、と隣に男性が座った。
顔を盗み見たら知り合いのUさん(30代前半男性)そっくりの好青年。じゃっかん顔が赤いのはやはり飲んでいるのか。抱えた大きなリュック。車内は混んでいない。そういう状況で私の隣に人が座るなんて珍しい。
一応、所持品に注意しつつ居住まいをただし、それでもやっぱり酔っ払いなのでガラスに頭をくっつけて、ぐらぐらしていた。
男性は私の降りる停留所の2つくらい手前で、普通に降りていった。


はてなんで、彼は隣に座ったんだろうと考えてみた。
私がその日特別せくしーな服を着ていたわけでもない。
もしかすると、私は酒を飲むと「いいひと」になるのだろうか。「いいひと」は言い過ぎか。「ふつう」か。よくベロベロに酔ってるのに「えっ記憶ないの?全然酔ってないと思ってた」と言われるし。
ATフィールドが解除され、「ああ、まぁいいですよそこにいても」というかんじになるのか。
そういや彼氏ができるのは酔っている時だけだった……気が……いや、そんなことねーぞ。


非常にくだらないことを思いついた。「一番先に隣に座ってもらうにはどうしたらいいのか」を今後バスに乗るたびに試してみよう。表情、姿勢、服装、化粧、きっといろんな要素がからみあって、ああこの人なら隣に座ってもいいか、という気分になるのだろう。
あっ、でも、行動科学あたりで先行研究がありそうだ。
調べてみたいなぁ。

薬は偉い

くるみきな粉オリゴ糖、というヘルシーマクロビ意識高い系な人が喜びそうな話の次に、薬の話。

「薬に頼らず」
ということば。我々の人生の中で、目指すべき立派で自然で素晴らしいこととして浸透しているように思う。前提条件として薬は人工的で不自然であまり体内にいれるべきものではなくて、なんか、こう、よくわかんないけど、こわい?そういう存在ですよね。
「なるべく薬に頼らずに」なんて口にすると、クラスがあがったような気分になりますよね、特に女性は。素敵度がアップしたかんじ。しぜんたいのうつくしさ、じぶんみがき。男にモテはしないけど確実に同性の受けはよくなりますよね。
私はなんどもネタにしてるけど、子供の頃マクロビ生活をさんざんやらされたせいで、そういう「自然がいちばん」的なのは、もううんざりなんだよ。
でも、やっぱり自分の中に「薬に頼らず」の呪縛が残っていることを気付かされた。

ノラヤ出勤が、ない日々 - 仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長にも書いたけど、結局大学病院に行って多忙で偉い知人の医師に診てもらったわけですよ。医者モードの彼を見るのははじめてだったのでちょっとドキドキで楽しみだったんですが、完璧に納得のいく説明をしてくれた。これこれこういう状態で、なんでMRIを撮って大学病院で診ることになったかというとこういうわけで。こういう可能性があるけどこうだとしたらこういう治療で。すごいなあと、話を聞いているうちに自分が彼に全幅の信頼を寄せている安心感が広がってきた。とにかく「原因がなんだかよくわかんなくてなんでこうなったのかわかんない、これからどうなるのかわかんない」の不安が解消された。
そして、痛い。
「痛み止めの飲み薬出しときますねー」と彼が言った時、やっぱり「えー、いらない……」と内心言いかけた。その前に病院でもらった痛み止めも飲んでなかったし、だいたい歯医者でも痛み止めもらっても飲んだことほとんどない。しかし
「楽になりますよ、私も前になったとき飲んだ」
と彼が言ったんで、とたんに「じゃぁ飲もう」という気になった。


大学病院前には、つい先日車がつっこんで大破した薬局がある。応援したくて、そこで薬を出してもらった。副作用について執拗に確認した。やっぱり自分の中のどこかに「薬よくない」「薬に頼らず」の意識があるのだなと思った。
そして信頼している知人が「効く」というとあっさり意見を変えちゃうあたり、まんま、ニセ科学やニセ医療にはまる人と同じ。しょうもないなぁ、と、内心苦笑した。

そういうわけで薬飲んでシップ貼って暮らしていますが。
やっぱ楽だわー!
全然違う。薬は偉い。
知人のドクターに診てもらった安心感もあるだろうけど。
QOLの改善っていうんですか。常に意識するほど痛くはなかったけど、動かす時にこっちは痛くなるから。こういうふうに、と、しばらく変えていた動き方を、しなくていいというのが、素晴らしい。

そういうわけで、「薬に頼らず」にこだわって痛みに耐える自分偉い、みたいな感じがあった。恥ずかしながら。でも、今後はもう頼っちゃえと思ったのでした。
耐える道は、若くて体力のある人が行けばよろしい。

くるみきな粉オリゴ糖ヨーグルト

昨年11月から走り始めて、Tarzanを読むようになって、いろいろ食べ物の知識も仕入れた。オメガ3脂肪酸というものの存在を知って以来、喜んでナッツ類を食べている。特に、くるみに目覚めてしまった。
料理しながらキッチンドリンカーじゃなくてキッチンくるみイーターになってぼりぼり食べる。朝はヨーグルトにグラノーラとともに入れたり、砕いてサラダや冷奴に入れたりする。
息子からは「ヨーグルトにくるみは、合わないのでは」と文句を言われるが、私はおいしいと思う。カロリーも高いが、食べすぎない程度に食べる。

ところで、きな粉。毎年正月に買うけど余らせてしまう。そのきな粉を、くるみとともに食べると異常においしいことを発見した。

もちろんきな粉も言わずと知れた大豆からできたヘルシーな食材。
ヨーグルトに、くるみをいれて、きな粉をどばどば入れて、オリゴ糖をたらっと入れて、まぜまぜして食べるとうまい!ああうまい。きな粉の香りと、ヨーグルトの酸味に、くるみの食感が食べ応えを感じさせてくれます。

このくるみきな粉オリゴ糖ヨーグルトにはまってしまった。家人は誰も食べないので、私だけ食べ、正月に余らせたきな粉はあっというまになくなってしまった。

ちなみにきなこマーガリンはちみつがけもおいしい。でもこっちはカロリー的にやばい。
いつかきなこホイップクリームを作って、石井屋の黒豆きなこサンドを自作してみたいものだ。うまいよね、あれ。

「脳が壊れた」

脳が壊れた (新潮新書)

脳が壊れた (新潮新書)


いやーこれは面白かったですよ。
41歳で脳梗塞を発症し、高次脳機能障害が残った著者の経験談

脳が壊れるとどうなるのか、の一例が本人の口から語られる。脳が壊れた当事者がこうやって本を出せるまでになるんだというのがまずびっくり。
著者はフリーランスの取材記者。ずいぶん重たい体験なのに、文章は読みやすくそして笑えるポイントもちりばめられてて、楽しく読める。そして全体を通して著者はとてもポジティブだ。これまで貧困層や社会から外れているような人たちを主に取材対象としてきた著者は、脳梗塞を僥倖ととらえる。自分の症状と取材対象だった人たちを重ね合わせ、何かしらの原因で人と同じことができなくなってしまっている彼らの気持ちを「追体験できる!」として、自分をつぶさに観察し記述するのだ。
脳に何か起きた場合の後遺症としては、麻痺や言語障害をまず思い浮かべる。そういう後遺症はわかりやすい。私の父も脳腫瘍を患い、手術後は喋れなくて体がうごかなくなって、別人になってしまった。だが著者のケースは、一見後遺症があるとわかりづらい。わかりづらいのに、いやわかりづらいからこそ、本人はとても辛い。たとえば半空間無視。左側が見えない、というか「ないことにしたい」ので見れない。そしてみえる方の右側を注視してしまう。結果的に目をそらしてへんな方向にガンを飛ばす、ただのむかつくやつになる。それから感情失禁。感情が溢れ出して起伏が激しくなり、すぐ感動して号泣してしまう。ちょっと怖い。とにかく「普通なのになんかおかしい人」になってしまうのだ。本当におかしい人ならおかしい自覚はないけど、著者の場合はおかしい自覚があるのに、それをやってしまう。これは辛いだろう。

興味深かったのが、リハビリについて書かれた部分だ。
指の曲げ伸ばしすらできない状態から、どうにかして機能を回復しなければならない。いったいどうやっていくのか。じわじわと少しずつ回復していく過程、苦悩と工夫と喜びが詳しく書かれている。
リハビリは「駄菓子屋のくじ引き」なのだそうだ。これをやればこれが動くか?と試して、「あたり」が出たらその「あたり」の感覚を覚えていく。そうやって、新たな動く回路を作っていくのだそうだ。体って脳ってそういうふうにできているんだ、すごいなと思った。

後の方ではそもそもなぜ脳梗塞になったのかの原因も考えている。著者はちょっと大変な……おそらく発達障害のある奥さんを持ち、奥さんも脳疾患で死にかけ、その結果ほとんどの家事をこなしていた。その上何時間にもわたる取材をし、睡眠不足なまま仕事をし、さらに趣味でバイク。……そろそろ「過労死する」と冗談で言っていたら本当に死にかけたということだ。脳梗塞をきっかけに、生活を見直し、そしてそんな生活をせざるをえなかった自分の性格を見直し、改善していった。

脳梗塞になってよかったとは言ってはいけないと思うが、取材記者である著者にとってはあらゆる意味で「貴重な体験」だったのだろう。生き方すべてを変えて、はじめて「プロ」になった気がする、と述べている。
私は著者の書いた他の本も読みたくなった。重いタイトルのものばかりだけど、この人の本なら読める気がする。

最貧困女子 (幻冬舎新書)

最貧困女子 (幻冬舎新書)