仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

ビールと温泉と面白いものが好きな48歳、高校生男子の母。

ゆらゆら・キラキラ・ひらひら

私は女性らしいファッションが苦手だ。必要に迫られそういう格好をしても居心地の悪さを感じる。ボロボロのジーンズとTシャツが一番ほっとする。

しかし、時々「ぱあーっ」となって、女らしいファッション、女らしいアイテムに熱をあげてしまうことがある。

 

少し前、私のブログのポストが元で、とある大新聞に取材をしていただいた。

その時、ネットミーティングをしたのだが、カメラ越しに見えた担当の記者さんが、すごく素敵なイヤリング(ピアスかもしれない)をしていたのだ。

話すたび、うなずくたび、縦に繋がったリングのパーツがキラキラと揺れ、光を反射した。

はああっ!素敵。

欲しい。私も、あんなかんじに、ゆらゆらキラキラしたい。

大新聞の記者の方だから、多分高価なものだろう。でも、似たようなものがあるかも。しばらく「ぱあーっ」となって、ネットで検索した。なかなか似たようなのはない。ああ、見つからないと余計に欲望が募る。

「待て、落ち着け」

と、心の中で冷静な声がする。

「あのね、あのようなピアスはバリバリ働いていてパリッとスーツも着こなすワーキングウーマンだから似合うんであってね。あなた、ろくに働いてないし、バイトはピアス禁止だし、外出するときもバイクだからピアスできないし、Tシャツと破けたジーンズで、いつキラキラしたやつつけるの」

しかし、しばらく日をおいても熱は冷めやらず。結局、仙台駅のS-PALで、輪っかがゆらゆらするピアスを買った。その記者さんのはリングがいっぱいついていたけど、これは2つしかついてない、でも充分だ。1000円ちょいしかしないし。

不思議だ。今までの自分だったら、決して選ばないデザインだ。こういうのも面白いな、と、気に入っている。せめて破けていないジーンズの時に、バイクでなく歩く時に、たまーに、つけている。

人に影響されて新しい世界が広がるのは楽しいことだ。

金が減ったし、そのピアスをつけたからといってバリバリ働けるわけでもない。相変わらずだ。

 

最近、なんとなく見つけた、「青葉家のテーブル」という動画。


『青葉家のテーブル』第1話:トモダチのつくりかた【主演・西田尚美】「北欧、暮らしの道具店」オリジナル短編ドラマ

 

これ、短めのお話なので一気に全話見てしまった。ちょっと変わったひとたちが集まって、素敵なインテリアとファッションと食べ物に包まれて暮らしている。日々ちょっとした騒動が起こるけど、穏やかに終わって後味が凄くいい。

休日の締めに、のんびりした気持ちになりたいときに、ぴったりだ。

多分「北欧、暮らしの道具店」の商品がこういうインテリアでファッションなんだろう。

私はあんまり北欧系は好きじゃないんだけど、これに出てくる西田尚美さんの着ている服が、素敵で、ちょっと「ぱあーっ」となってしまった。4話で彼女が服の仕事をしていることがわかるので、素敵なのは当たり前なのだが。

綺麗なのだ。ゆるゆる、ふわふわ、ひらひらしているのだ。

首元の空き具合。ギャザーの入りぐあい。薄くてひらりとした天然素材。体にぴったりせずふわっとなってるのとか。柄も色合いも綺麗。太陽光が似合いそう。

しかし、しかしだ。「欲しい」モードになる前に思いとどまった。

私はかつてそういうものを買っていたことがあるんだ。カタログかなんかでいいなと思って通販で書いまくった。

似合わないんだよねー、ああいうの。鏡を見るとなんだか情けなくなってくるのだ。華のある人が着るといいけど、寂しい地味顔には似合わないんだ。

そして、寒い。あの薄くて木綿だの麻だのやさしい系の素材で、首がすかすか、ひらひらした空気を孕むデザインは、寒い。体が心もとなく感じて、ダメ。着たとしても上になにかを羽織らずにはいられない。せっかくのデザインがだいなしだ。

(その上、肩がこるので保温のためのストール・スカーフなど首に巻くやつがダメなのだわたしは)

わたしは、寒がりだ。くるぶしのあいた丈のパンツははけない。素材がふわっとあったかく体をあっためてくれるものしか着れない。

その結果、ニットか、ネルシャツ(しかもチェック)ばかりになる。

かつて買ったひらひらの服は全部リサイクルショップ行きになった。

 

いいなあ、と思って、手に入れて、良かったものもあれば失敗したものもある。

いろいろ学習したし、できれば無駄遣いはしたくないものだ。

が、「ぱぁーっ」は、ときどきやってくるのだろう。目を塞いで生きているわけでないから。

 

 

「そばですよ たちそばの世界」平松洋子

そばですよ。

立ち食いそばではなく、立ちそば、という。「喰い」が入るより品がありますね。

そばですよ (立ちそばの世界)

そばですよ (立ちそばの世界)

 

平松洋子さんはおいしいものをおいしそうに表現するのにとにかく長けている。そして立ちそばも大好きなのだろう。おいしそう、が溢れている。東京あたりの、チェーン店ではなく、個人店でやっている小さな蕎麦やさんをめぐるレポートだ。そこのメニューを実際に食べて、そして店主にお話をうかがう。食べ物を表現するのに、そうかこういう表現があるのかと、にやりとしたり膝を打ったり。勉強になる。こういうことばを使えるようになりたい。

で、登場するお蕎麦屋さんがまた素敵だ。おそばやさんなのに、おそばだけじゃない。コロッケがおいしかったり、てんぷらに特徴があったり、カレーがおいしかったり。麺やそば粉やつゆや、そばそのもので味を追求しているのはもちろんだ。いやー、奥が深いもんだなぁ。

私は「そば神(そばかん)」こと、そばの神田をこよなく愛するのだが、そば神ラバーのくせに春菊天そばしか食べてこなかった。ちなみにそばの神田とは仙台を代表するB級グルメであり、仙台に来て牛タンや寿司を食べる金がないならそば神を食べるべきである。そば神はこちら。

www.sobanokanda.com

こんなに立ちそばの世界は広いならば、もっといろいろ食べて学ぶ、いや、楽しむべきだよなぁ。

この本でも、つゆ、とか、かえし、とか、だしとか、用語からして私はわからんのである。あれはただのめんつゆではないのか。しかも、冷やしと温かいのと、つゆを使い分けているとは。

ちなみに「つゆ」「かえし」「だし」は、ここに詳しく書いてあるぞ!もちろん各蕎麦屋さんは配合を変え材料を変え工夫しているのだ。

www.higeta.co.jp

 

そばを食べたくなった私は、先日さっそく東一のそば神に行ってみた。女性ひとりで立ちそばをすする人に私以外であったことがない。と思ったら、この日は私の他にも2人くらいいらっしゃった。よいことだ。

店に来た人はみな、目的を達する以外の無駄な動きはせず、占領する場所を最低限にして、すみやかにさっと食べてさっと出ていく。あの清流にも似た空気はいつ来ても気分がいい。

私はいつもの春菊天をやめて、げそ天そばにした。410円。結局あまり冒険はしない。つゆがしみる前はカリッと、やがてじわじわと柔らかくなる変化が好きだから、私はかきあげを選んでしまう。特に移行期におけるカリッとふわっと両方が味わえるときと、ほぼ溶けてそばといっしょに啜っている段階が好きだ。

カリッとしたのを味わっていると、目の前の60過ぎ男女二人連れ(かけそば)のうち、おばさんがいきなり入れ歯を外した。すばやくまた入れた。カウンター越しにそんなのを目にした程度で食欲が減る私ではない。

そば神の客は総じて無口だが、この二人はぽつぽつ喋っていた。かけそばを啜りながら、

「だからね、俺は目を皿のようにして探したんだよ。でも見つからなかった」
「ふふっ。目を皿にしたの」おばさんが笑う。

へぇ。「目を皿にする」なんて久しぶりにリアルで聞いたなぁ、と思った。おばさんが

「ねぇ、なんで『目を皿にする』なんていうんだろね」

と、疑問を口にする。
「ええっ?な…なんでだろうねぇ。目を…皿に……ううむ」
「目を、うんと細くするのかしらねぇ」
「ええっ!?」
二人は、ふふふと笑いあった。
私は食べ終わったのでささっと帰った。目をうんと見開いて皿みたいに円くする、といいう表現じゃないのかねぇ。などと考えながら。

実は久しぶりのそば神だった。普段、町中に出ない生活をしているので近くに行かないのだ。でも、バイクで駐輪場使えば無料時間内に食べ終わるし。もっとたべよう、立ちそばを。決意を新たに。

「全米最高視聴率男の『最強の伝え方』」アラン・アルダ

「パパ!見て!これ、へんなうごきになっちゃった!」

「……ふん、collisionが起きてるんだろう」

男の子が笑いながら語りかけると、大学教員だという父親は、なにが面白いのかというような口ぶりでこう答えた。

子供向けプログラミング体験会を行っていたときのことだ。はじめてのプログラミングを進めていくうちに、思いもしない動作をすることが多い。なぜこうなったのだろう、と考えることはとても大事だし、間違った動きでも子供には不思議で面白い。そんな子供のはしゃいだ気持ちに、水を浴びせるような冷たさを感じた。唖然とした。

…こりじょん…小学校低学年の子に、こりじょん…いや、日本語だったとしても、もうちょっと、なんか言い方……

 

この本を読んでいたら、この時の光景が思い出された。

サイエンスコミュニケーションの本である。

全米最高視聴率男の「最強の伝え方」

全米最高視聴率男の「最強の伝え方」

 

なんと著者は俳優なのだ。科学者ではない。大学の先生じゃない。

この変な邦題のせいで(自己啓発本じゃないんだから)本来手にとるべき科学者や大学の先生が「ふん、」とスルーしてしまいそうで悲しい。もっと読まれてほしい。

 

理系のサイエンスの専門の方々の「伝え方」「話し方」が固くて、わかりづらくて、素人をおいてけぼりにする。それは多くの人が経験し実感していることだろう。

自分たちが聞く側だった場合、そのもやもやした気持ちは自分を責める方向に向かって終わる。「だって、わたしが頭悪いんだもの。理解できなくたってしょうがないよね」

しかしいまや、アウトリーチ活動は必須だ。研究者の方々は、広く社会に研究成果をわかりやすく伝えなければならない。大変ですね……ほんとうに、おつかれさまです。

一方私は、まったくの個人的興味で大人のためのサイエンスを楽しく学ぶ場「ノラヤサイエンスバー」なんかを主催している。一応事業としてエンタテイメントとしてやってるので、いかに集客し当日いかに楽しんでもらうか、どうしたら堅苦しくないか、どうしたらつまんない思いをする人が減るか、どうしたら「面白いことをたくさん知ることができた、楽しかった!」と思って帰ってもらえるか、悩みつつやってる。だから「先生におまかせ、好きに喋ってください、テーマはなんでもいいです」なんて絶対言えない。

話が逸れたが、何度も何度も、もやもやしたりヒリヒリする体験をして、この本にも何かサイエンスバーをより良いイベントにするヒントがあるんじゃないか。そう思って手に取った。

著者は、「サイエンティフイック・アメリカン・フロンティア」という番組で、たくさんの科学者にインタビューしている。理知的な科学者の一方的な講義ではなく、なごやかな対話を通して生身の研究者に迫り、研究についての話を引き出しているそうだ。

キーワードは「即興」「共感」「ストーリー」。

通じ合っている感が生まれると、コミュニケーションが飛躍的にうまくいく。そして理解も驚くほどしやすくなる。「こんなものなんの役に立つんだ?」「くだらん」と軽視しそうなことが、実は効果的なんだなぁ、と思った。

ミラーエクササイズ、体を使ったゲーム。それらを体験した後に明らかに何かが変わる。私らも「アイスブレイク」やりますよね。見知らぬ人ばかりが集まって会場の空気が固まっているとき、アイスブレイクやると、ふわっと笑顔が広がって雰囲気が柔らかくなる。あれは場の空気を温めリラックスするだけではなく、お互いを理解する、理解してもらうのに効果的だったのだ。

専門用語を使うと、説明は楽だし、知的に見せることができる。でも、それでは幅広い人に理解してもらえない。著者は「炎って何?」を、11歳の子どもでもわかるよう説明するコンテストを科学者たちに提案し、それは実施された。実際子供が審査員になってチャンピオンが選ばれたそうだ。そのコンテストはその後子どもたちが課題を作る形で発展し開催されたという。面白そうだなぁ!

そしてなるほどと思ったのが「ストーリー」について。私達は無機質な説明より、物語を好み、より理解する。

「人となりなんて、どうでもいい。背景なんて、どうでもいい。私らは、事実を知りたいだけなのだ」と思う人は多いだろう。

でも、感情を揺さぶり、親近感を持ってもらうほうが、より理解してもらえるのだそうだ。

例えば。少し前にこの記事が掲載された。「ストーリー」の持つ力を使った文章だと思う。淡々とステロイドについての医学的情報を連ねるより、よっぽど説得力がある。書いた人の苦悩と祈りがにじみ出ている。

あの日お会いすることができなかった「脱ステ」ママへの手紙

 

おそらくニセ科学界隈は、この感情を揺さぶる技術を駆使して信者を集めているのだろう。「なんでそんなこと信じるの!?」の、答えが、このへんにあるのかも。

情報をわかりやすく伝えるために、図、動画、やさしい言葉、たとえ話、まではみんなやってるだろう。もっと人間が感情を持った生き物であることを考えて臨む必要があるかもしれない。

「共感」「ストーリー」についてはなんとかできそうだけど、即興のエクササイズについては日本人はシャイなので難しいかも。でも効果があるなら、試してもいいと思った。

老母の気分

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先日、ちょっとショックな出来事があった。

とある知人に用があって会いに行ったときのこと。

いくら待っても連絡しても待ち合わせの場所に来なくて、ようやく現れて「オンラインミーティングしてて」「携帯?出られなくて」と言うその人は、

コワーキングスペース閉めるそうですね。東京に行くんですか?」

と、妙なことを私に言う。

「へ?」

「息子さんについていくんですよね?」

「へ?」

「えっ?だって、お子さん、就職で、東京に行くって」

はああああ?

息子はまだ高校生だし、私は仙台から動く予定も何もありませんが?

そう言うと、「えっ?じゃぁ、なにをするんですか?」

とおっしゃる。

「今までも、これからも、コンビニ店員兼自営業ですけど」

声の音程が低くなってしまった。

 

もちろん、単なる勘違いだったと思うが、他のありうる勘違いより(コワーキングスペースを他の場所に移転するとか、私が母の介護で実家に帰るとか)より、はるかにショックだった。

だって、「息子について東京に行く」なんて、老母じゃないですか!!

仕事やめて、やることなくなって、じゃあって、息子の世話をしにいくような、そんなイメージ。

うえー!嫌だそんなの!まだまだ15年くらい先でしょ?60過ぎでしょそういうことするの?

今だって、私、上下防寒装備で、オフロードバイクでこのオフィスまで来ましたけど?

私がそんな、老母に見えましたか?

しかもその人、私の一つか二つ上で、同世代なんですよ。お子さんも同じ年齢だったはずなんだけどなあ…もっと年上に見えたのかなあ。

 

それ以前に!息子がたとえ就職して東京に行ったとしても!それにくっついて東京行くなんて選択肢、ないわい。息子だって迷惑でしょ!

なんなんだその、家族の付随物としての存在価値しかないみたいな。おいらそんなんなっちまったのか。

 

しかしまぁ、同時に、悔しかった。

実際、世間一般からすれば、50近い既婚子持ち女性のイメージってそんなもんしかないのだろう。悲しい。いくらバイク乗ってようが、関係ないわ。

もしも私が美魔女だったら少しは評価が違っていただろうか。

残念なことに私はそっち方向の人ではない。だが、くっっそみたいに美人でなくても、50過ぎても、家族のおまけみたいな状態ではなく、ちゃんと稼げる一個人として居られる、ロールモデルを示したい。

と、思う。思うのだが。

今でさえ人の収入に依存して生きているので、本当にだめですね……

女子ごはんより、一杯のラーメン

ワンプレートランチ、というものが嫌いだ。

洗い物が一個で住むので店側からしてみれば省力化できる。いろんな食べ物がカラフルにちまっと乗っているのは、写真にも取りやすくSNS映えする。

でも、食べづらいじゃないか。器を持って食べたいもの、あるでしょう。ごはんとか。こぼれやすいものとか。こぼれないよう顔面をテーブルに近づけて食うっていうの、嫌なんだよ。

それに量が少ない。食った気しないんだよ。なんであれで800円もするんだ。この中途半端な悲しい気持ち。

 

それにひきかえ、ラーメンってなんて素晴らしいんだろうと思う。

最初から、どんと器一つ。世界が完結。以上。置いてよし。手で持って汁をすすってもよし。食べ終わった時は間違いなく「ああ、食ったー」と平和な気分が訪れる。残念ながら胃もたれして夕飯を抜くことになることがしばしばあるけど。それは幸福と引き換えだから仕方がない。

 

ヘルシー+SNS映えと、がっつり+個人の幸福。そういえば、ワンプレートランチは女性が友人や同僚ときゃわきゃわしながら食べるイメージがあるけど、ラーメンは男性が1人でガッ!と食ってサッ!と帰るイメージがある。

 

ある休日、メディアテーク近くの春日町近辺を歩いていた時のこと。

10歳くらいの男の子と、お父さん、お母さんのナチュラルファミリーが歩いていた。荷物が少ないところを見ると、車をどこかにとめてきたのだろう。時間は13時すこし過ぎたところ。お母さんは不機嫌だった。

「ずいぶん、不便なところだわねー」

不便?そうか?

「繁華街って言ったら普通、国分町でしょう。かなり外れてるじゃない」

「ラーメン屋さん、どこにあるの?」

子供が発した言葉でこの3人の目的がわかった。

お父さんがあわててとりなすように言う。

「店の規模を考えたらね、国分町じゃ…」

「ねぇ場所わかってるの?本当にこっち?」

お母さんはどんどん不機嫌になる。

「だからね、カウンター20席だとしたら、家賃を考えたら国分町はね」

お父さんは経営目線で喋ってる。おいおい、会話が噛み合ってないよ。

いやー、聞いてておかしくなった。

このへん、うまいラーメン屋がある。麺家不忘、嘉一、えび助が同じ通り沿い。もうちょっとあるけばもっといろいろある。

きっとお父さんは、一人でとか、同僚と一緒にとか、前に来たことがあるのだ。それでおいしかったから、家族で食べに行こうと提案したのだ。名店は中心部から外れたところにこそ多い。そのためなら多少不便でも行く。家賃が安くて、カウンターだけの小さい店なら、その分味を追求できるはずだと。

でもお母さんは…そういうの求めていないんだろうなぁ。

いつのまにか3人の親子はどこかに行っていた。さてどこのお店に向かったのだろう。

 

そんな親子のやりとりを見て、少なからずお父さん側に思いを馳せてしまった私は、つくづく、脳内がおっさんだなぁと思った。

「未来職安」柞刈湯葉

 ポッドキャストの「いんよう!」で紹介されていて柞刈湯葉さんの本を読みたくなった。お正月帰省の前に書店で買ってみた。

未来職安

未来職安

 

 なお柞刈湯葉さんは本業が研究者。たまにRTで回ってくる。

twitter.com

未来の職安のお話だ。(そのまんま。)

未来は働かなければならない人がほとんどいない。ほとんどの人が「消費者」となって支給される生活基本金で暮らしている。ほんの2%の人が「生産者」となり、仕事をしている。世界はいろいろと自動化・機械化され人の代わりにAIが考えロボットが働いてくれるからだ。現金もほとんど使われない。いい世界だ。そんな未来になって欲しい。

そんな状態でもなぜか「働きたい」という人が、ごくたまにいる。学生の時から優秀でその才能を世のため人のために活かすべく当然のように生産者になった人。そして優秀でもないけど事情により生産者になりたい人。後者のふわふわした人が、舞台となる職安にやってくる。所長(レアな、生猫)と経営者の大塚さん、主人公の目黒の3人(?)のもとにやってくる依頼人をはじめさまざまな人が繰り広げる騒動。騒動は起きるけれど、妙にのんびりした空気感とともに平和に日々が進む。

なんでもネットで情報が手に入るのは今と同じ。消費者と生産者の生活格差は存在してて、消費者の行かないいい店の写真をシェアしていいものかどうか悩んだり、生産者なのに消費者クラスの服を選んで波風が立たないようにしたり。こまごましたエピソードが妙にリアル。

働いてもお金が稼げず、家族を持つのがしんどい今の世界と逆に、「消費者」として生きるのに家族を持つと都合がよくなるようにできているのも、面白い。

未来職安の生産者たちは、全然働いている感がない。必死感も使命感もない。職安の人間2人はいつも暇を持て余している。唯一目黒の友人のフユちゃんがITの仕事をしているが、激務というわけでもなさそう。どうやら未来では働きすぎて死ぬとか精神を病むということは存在しないのだ。今ではごくごく限られた優秀な人だけが勝ち取れる、精神と生活の両方の安定。それが未来では生きているだけで得られる。ん?ちょっとまって本来はそうであるべきではないのか…。

早く消費者だらけの世界が来て欲しい。働かずに暮らしたい。働きたくない。……誰にも必要とされなくても、誰にも認められなくても、世界にひとつだけの花じゃなくありふれた草でも砂みたいな存在でも、生きていける世界が来て欲しい。

ということを、風呂やトイレでこの本を読みながら思う。

 

実家でこの本を読んでいたら弟が「その人の横浜駅SFがおもしろいぞ」と言ってた。こちらのほうが有名らしい。読まなければ。

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

 

この「横浜駅SF」は未読なのだけど、柞刈湯葉さんは椎名誠の「アド・バード」に影響を受けて「横浜駅SF」を書いたそうなので、手元にあった(というか弟の本がノラヤにある)アド・バードを先に読んだらすげー面白かった。 

アド・バード (集英社文庫)

アド・バード (集英社文庫)

 

 

「どもる体」伊藤亜紗

どもる、吃音、という現象になんとなく興味があって図書館で借りて読んだ。この本についてはtwitterかなにかに流れていて知ってた。先日、ふと町中でこの本を持っていた人をみかけて(メガネをかけた若い研究者っぽい男性でした、ええ)、「あ」とピンときて図書館で予約してみた次第。

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

 

「どもる原因はなにか」「どうすればどもらなくなるのか」といった内容だと思っていたら、まったく違った。

どもるという現象そのものに、たくさんの当事者へのインタビューを通して、丹念に迫った内容だ。

自分と吃音は無関係だと思っていたけど意外と思い当たることがたくさんあり、「しゃべる」行為を考えることになった。

 

どもる現象の種類にも「連発」「難発」「言い換え」の主に3種類がある。
それぞれの現象の発生のしかたが違い、「言い換え」など傍から見たらまったくどもっていないようになるテクニックを無意識に使うようになると「どもり」の自覚がなくなるし、他人にも気づかれなくなる。

そして、どもりの発生しやすい条件が、人によってまったく違う。端に音(た行とか、「かんだ」「かただ」という組み合わせ)が理由だったり、シチュエーションだったり。

そして、驚いたのが、どもらない状況になる話。

リズムにあわせるとどもらない。俳優で、セリフを言って演じている時はまったくどもらない。朗読も。詩を読むとどもらない。そしてある人はプレゼンでどもりがひどくなるけど、また別な人はプレゼンの場合はどもらない……

そして、そうやってスラスラ普通に話せている状況は、決して本人にとって心地がよくないのだそうだ。本音がぱっと出ているのが「連発」でどもっている状態。演じたり、リズムに乗ったりすると、本音ではなくそれは演技であり、工夫を重ねてなんとか言えている状態で、体が乗っ取られているように感じることもあるという。自分が自分でないという。(そう感じない人もいる)

そういえば、知人の吃音がある人は、英語が流暢だった。脳内で英語に翻訳するという作業を通じていたからなのだろう。

すらすら言えると「どもりが治った」ように見られるけど、本人はどもらない工夫を常に強いられて、自分が自分じゃない状態になってしまう。それで、どもらない工夫をして吃音を周囲にも気づかれなかった人が、どもる自分を取り戻すというエピソードもあった。正直驚いた。どもってるのってつらそうだなと思ったし、流暢に喋れるのをみんな目指していて、そうなれたらハッピーなのかと思ったけど、そうじゃないんだあ。へぇー、と思った。

私もろくにしゃべれない人間で、人前で緊張せずに堂々と話せたら、というのは何十年も思っていることだけど(もちろんそれは小学校から社会人までずっと「声が小さい!」「きこえませーん」といつも言われていたからだ)そのスラスラ言える世界は思いのほか、居心地は良くないのだろうか。そういえば自分でうまくコントロールできなかったイベントが評判良かったりしても全然うれしくないので、それに似てるかもしれない。

 改めて、しゃべるって高度なことなんだな、と思った。こんな高度なことなんだから、うまくしゃべれない人がいたって当たり前じゃないか。

 

私がこの本を実家で読んでいたら、母が表紙を見て、近所の吃音の人の噂話をはじめた。

「吃音の人って、どもれる時は辛くないっていう感覚もあるらしいよ」

と言うと

「そんなことないでしょう!いかにも、顔を歪めて、苦しそうに、してるじゃない」

というので

「この本によれば、そうとは限らないらしいよ」

と言うと、母は言った。

「でも、そういうの、見ているこっちが辛くなるじゃない」

なるほど。そういうことか。

吃音にしろ、私の声が小さくて喋れない件にしろ、他の人が不快だから、不便だから、なんとかしろ、というあくまで他者からの視点で指摘されるだけなのだ。そしてときおり、「かわいそう」というレッテルを貼られて。

 

そういえば前述の英語が得意な知人とは長い間一緒にいたので彼の吃音が当たり前に感じるようになり、打ち合わせで会った人に「あの人の喋り方(笑)」とこっそり言われて、むかっときた。別に彼はそういう人なだけだ、と思うようになっていた。

喋り方でもなんでも、いろんな人と一緒にいる経験は大事なんだよな。