仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

ビールと温泉と面白いものが好きな高校生男子の母。

食べたい食べたい、わしわし食べたい

もうすぐ死ぬかもしれないな。

 

なんとなくそう思うようになった。

数ヶ月前までは、どこまでもどこまでも遠い暗い道を歩いているようだった。青空がどうやっても見えない、井戸の底みたいなところを、わたし、いつまで歩き続けなければいけないんだろう、という。

 

ここんとこは目の前に立ちふさがる壁が「ドォオオオオン」と、できて、

「あなたの人生はこのへんで終わりですから。もう進まなくていいですよ」

と、言われているような気がする。

なんの根拠もないけれど。

あ、そうですか終わりですか、しかたない。もう、疲れた。

もう人生で思い残したことはないけど、死ぬのに苦しんだり痛かったりしなきゃいけないのが嫌だ。

 

私、どうやって死ぬんだろうな。

突然重病を宣告されるのか。バイクで事故るのか。それとも、身近な人に殺されるのか。

大学の後輩が突然死んだことがあった。ふつうに生活していたのに、朝親が起こしに行くと布団の中で息絶えていたそうだ。そういうことって、あるんだ、びっくりした。

20代の子だって突然死ぬんだから50にもなろうというわたしは、もっと死にやすいだろう。

 

となれば、死ぬ前に食いたいものを食っておかねばならない。

生きていると、食いたいものを好きなだけ食うと、でぶになるし健康に響く。しかしもし死ぬならどうでもいいじゃないか。

とんかつが食べたい。塩釜市場で海鮮丼を食べたい。ラーメンが食べたい。伊藤商店。潮の音。千極煮干。

ちょっとまて。パンも食べたい。パンもいいよ。

ふだんSEIYUの見切り食パンを70円くらいで入手して、その6枚切りの1枚の半分を一食分としているので、普通の菓子パンが150円などで売っていると「食べたいけど、ばからしい」と思って買わないのだ。

これももうすぐ死ぬなら食っておいたほうがいい。

でもわたしはきっと、そういう状況でも、見切り品で安くなったものしか買わないだろう。これは合理的判断だと思いたい。だって味も品質もほとんど変わらないから。

あとごはんだよな。こめのめし。

いくら丼が食べたい。ウニ丼が食べたい。いや普通の牛丼も食べたい。カツ丼も食べたい。カレーライスもいいね。こういうどんぶりもの、ずっと「太るから」と最小サイズを頼み、通常サイズのときはちかくにいる息子に「多いからあげる」と食べさせて、自分の体重維持に励んできた。でも死ぬんだったら、ちゃんと「おなかいっぱい」になるまで食べてもいいんじゃないだろうか。

ポテチも食べたいなー。プリュンゲルスのサワークリーム好きだ。

シュークリームも食べたい。あのほとんど空気でできているしろもの。なんであんなに幸福なのだろう。

からあげ弁当が食べたい。からあげ、だけではなく、弁当になっているもの。

コロッケも食べたい。揚げたては熱すぎるから、ちょっと時間が経ってまだ表面が「さくっ」としているときに。これもいつもは1個しか食べないけど、2個とか3個食べたい。

肉まん食べたい。大福食べたい。プリン食べたい。

 

こうして書き散らすと、気づく。普段わたしが、いかに食べたいものを我慢しているか、そしてそれが炭水化物ばっかりなのが。

肉や魚や野菜には、この「食べたい食べたい」という気持ちが湧いてこない。そりゃ塊肉にはそそるけど。喉の奥から振り絞るような飢餓感、渇望感の対象は、いつだって、てっとりばやくエネルギーに変換できる炭水化物や糖分なのだ。

 

「食べたい食べたい、わしわし食べたい、炭水化物を、糖質を」

糖質制限なんて無理だと思う。

「食べるのを我慢する必要はありません。別の食品におきかえるだけ」

などと、やさしくその手の解説書は言うけど。

きらきらひかる米のめしにかわるものなどあろうか。湯気を立てて、はいわたくしエネルギー源でございます、とずっしり存在する、ご飯。

ふんわりしてて、こっちが脱力するオーラを出していて、あの接近したとたんかぐわしい香りと幸福感につつまれる、パンにかわるものがあろうか。

そして日本における食の多様性をこれでもかと体現した多種多様のラーメン。食べ始めから終わりまで一つのストーリーをつむぐような体験。あれにかわる体験があるだろうか。どんぶりに顔を近づけ時には両手でささげ、上半身をぜんぶささげるような、なにものにも邪魔されたくない気分。

なんでそういうのを捨てて置き換えられる気になれるんだろう、わからない。

 

あー。食べたい食べたい。いつだって食べたい。

「食べたい」を追求する食の冒険への旅は、確実に死ぬ前にやっといたほうがいいな。