老母の気分
先日、ちょっとショックな出来事があった。
とある知人に用があって会いに行ったときのこと。
いくら待っても連絡しても待ち合わせの場所に来なくて、ようやく現れて「オンラインミーティングしてて」「携帯?出られなくて」と言うその人は、
「コワーキングスペース閉めるそうですね。東京に行くんですか?」
と、妙なことを私に言う。
「へ?」
「息子さんについていくんですよね?」
「へ?」
「えっ?だって、お子さん、就職で、東京に行くって」
はああああ?
息子はまだ高校生だし、私は仙台から動く予定も何もありませんが?
そう言うと、「えっ?じゃぁ、なにをするんですか?」
とおっしゃる。
「今までも、これからも、コンビニ店員兼自営業ですけど」
声の音程が低くなってしまった。
もちろん、単なる勘違いだったと思うが、他のありうる勘違いより(コワーキングスペースを他の場所に移転するとか、私が母の介護で実家に帰るとか)より、はるかにショックだった。
だって、「息子について東京に行く」なんて、老母じゃないですか!!
仕事やめて、やることなくなって、じゃあって、息子の世話をしにいくような、そんなイメージ。
うえー!嫌だそんなの!まだまだ15年くらい先でしょ?60過ぎでしょそういうことするの?
今だって、私、上下防寒装備で、オフロードバイクでこのオフィスまで来ましたけど?
私がそんな、老母に見えましたか?
しかもその人、私の一つか二つ上で、同世代なんですよ。お子さんも同じ年齢だったはずなんだけどなあ…もっと年上に見えたのかなあ。
それ以前に!息子がたとえ就職して東京に行ったとしても!それにくっついて東京行くなんて選択肢、ないわい。息子だって迷惑でしょ!
なんなんだその、家族の付随物としての存在価値しかないみたいな。おいらそんなんなっちまったのか。
しかしまぁ、同時に、悔しかった。
実際、世間一般からすれば、50近い既婚子持ち女性のイメージってそんなもんしかないのだろう。悲しい。いくらバイク乗ってようが、関係ないわ。
もしも私が美魔女だったら少しは評価が違っていただろうか。
残念なことに私はそっち方向の人ではない。だが、くっっそみたいに美人でなくても、50過ぎても、家族のおまけみたいな状態ではなく、ちゃんと稼げる一個人として居られる、ロールモデルを示したい。
と、思う。思うのだが。
今でさえ人の収入に依存して生きているので、本当にだめですね……
女子ごはんより、一杯のラーメン
ワンプレートランチ、というものが嫌いだ。
洗い物が一個で住むので店側からしてみれば省力化できる。いろんな食べ物がカラフルにちまっと乗っているのは、写真にも取りやすくSNS映えする。
でも、食べづらいじゃないか。器を持って食べたいもの、あるでしょう。ごはんとか。こぼれやすいものとか。こぼれないよう顔面をテーブルに近づけて食うっていうの、嫌なんだよ。
それに量が少ない。食った気しないんだよ。なんであれで800円もするんだ。この中途半端な悲しい気持ち。
それにひきかえ、ラーメンってなんて素晴らしいんだろうと思う。
最初から、どんと器一つ。世界が完結。以上。置いてよし。手で持って汁をすすってもよし。食べ終わった時は間違いなく「ああ、食ったー」と平和な気分が訪れる。残念ながら胃もたれして夕飯を抜くことになることがしばしばあるけど。それは幸福と引き換えだから仕方がない。
ヘルシー+SNS映えと、がっつり+個人の幸福。そういえば、ワンプレートランチは女性が友人や同僚ときゃわきゃわしながら食べるイメージがあるけど、ラーメンは男性が1人でガッ!と食ってサッ!と帰るイメージがある。
ある休日、メディアテーク近くの春日町近辺を歩いていた時のこと。
10歳くらいの男の子と、お父さん、お母さんのナチュラルファミリーが歩いていた。荷物が少ないところを見ると、車をどこかにとめてきたのだろう。時間は13時すこし過ぎたところ。お母さんは不機嫌だった。
「ずいぶん、不便なところだわねー」
不便?そうか?
「繁華街って言ったら普通、国分町でしょう。かなり外れてるじゃない」
「ラーメン屋さん、どこにあるの?」
子供が発した言葉でこの3人の目的がわかった。
お父さんがあわててとりなすように言う。
「店の規模を考えたらね、国分町じゃ…」
「ねぇ場所わかってるの?本当にこっち?」
お母さんはどんどん不機嫌になる。
「だからね、カウンター20席だとしたら、家賃を考えたら国分町はね」
お父さんは経営目線で喋ってる。おいおい、会話が噛み合ってないよ。
いやー、聞いてておかしくなった。
このへん、うまいラーメン屋がある。麺家不忘、嘉一、えび助が同じ通り沿い。もうちょっとあるけばもっといろいろある。
きっとお父さんは、一人でとか、同僚と一緒にとか、前に来たことがあるのだ。それでおいしかったから、家族で食べに行こうと提案したのだ。名店は中心部から外れたところにこそ多い。そのためなら多少不便でも行く。家賃が安くて、カウンターだけの小さい店なら、その分味を追求できるはずだと。
でもお母さんは…そういうの求めていないんだろうなぁ。
いつのまにか3人の親子はどこかに行っていた。さてどこのお店に向かったのだろう。
そんな親子のやりとりを見て、少なからずお父さん側に思いを馳せてしまった私は、つくづく、脳内がおっさんだなぁと思った。
「未来職安」柞刈湯葉
ポッドキャストの「いんよう!」で紹介されていて柞刈湯葉さんの本を読みたくなった。お正月帰省の前に書店で買ってみた。
なお柞刈湯葉さんは本業が研究者。たまにRTで回ってくる。
未来の職安のお話だ。(そのまんま。)
未来は働かなければならない人がほとんどいない。ほとんどの人が「消費者」となって支給される生活基本金で暮らしている。ほんの2%の人が「生産者」となり、仕事をしている。世界はいろいろと自動化・機械化され人の代わりにAIが考えロボットが働いてくれるからだ。現金もほとんど使われない。いい世界だ。そんな未来になって欲しい。
そんな状態でもなぜか「働きたい」という人が、ごくたまにいる。学生の時から優秀でその才能を世のため人のために活かすべく当然のように生産者になった人。そして優秀でもないけど事情により生産者になりたい人。後者のふわふわした人が、舞台となる職安にやってくる。所長(レアな、生猫)と経営者の大塚さん、主人公の目黒の3人(?)のもとにやってくる依頼人をはじめさまざまな人が繰り広げる騒動。騒動は起きるけれど、妙にのんびりした空気感とともに平和に日々が進む。
なんでもネットで情報が手に入るのは今と同じ。消費者と生産者の生活格差は存在してて、消費者の行かないいい店の写真をシェアしていいものかどうか悩んだり、生産者なのに消費者クラスの服を選んで波風が立たないようにしたり。こまごましたエピソードが妙にリアル。
働いてもお金が稼げず、家族を持つのがしんどい今の世界と逆に、「消費者」として生きるのに家族を持つと都合がよくなるようにできているのも、面白い。
未来職安の生産者たちは、全然働いている感がない。必死感も使命感もない。職安の人間2人はいつも暇を持て余している。唯一目黒の友人のフユちゃんがITの仕事をしているが、激務というわけでもなさそう。どうやら未来では働きすぎて死ぬとか精神を病むということは存在しないのだ。今ではごくごく限られた優秀な人だけが勝ち取れる、精神と生活の両方の安定。それが未来では生きているだけで得られる。ん?ちょっとまって本来はそうであるべきではないのか…。
早く消費者だらけの世界が来て欲しい。働かずに暮らしたい。働きたくない。……誰にも必要とされなくても、誰にも認められなくても、世界にひとつだけの花じゃなくありふれた草でも砂みたいな存在でも、生きていける世界が来て欲しい。
ということを、風呂やトイレでこの本を読みながら思う。
実家でこの本を読んでいたら弟が「その人の横浜駅SFがおもしろいぞ」と言ってた。こちらのほうが有名らしい。読まなければ。
この「横浜駅SF」は未読なのだけど、柞刈湯葉さんは椎名誠の「アド・バード」に影響を受けて「横浜駅SF」を書いたそうなので、手元にあった(というか弟の本がノラヤにある)アド・バードを先に読んだらすげー面白かった。
「どもる体」伊藤亜紗
どもる、吃音、という現象になんとなく興味があって図書館で借りて読んだ。この本についてはtwitterかなにかに流れていて知ってた。先日、ふと町中でこの本を持っていた人をみかけて(メガネをかけた若い研究者っぽい男性でした、ええ)、「あ」とピンときて図書館で予約してみた次第。
「どもる原因はなにか」「どうすればどもらなくなるのか」といった内容だと思っていたら、まったく違った。
どもるという現象そのものに、たくさんの当事者へのインタビューを通して、丹念に迫った内容だ。
自分と吃音は無関係だと思っていたけど意外と思い当たることがたくさんあり、「しゃべる」行為を考えることになった。
どもる現象の種類にも「連発」「難発」「言い換え」の主に3種類がある。
それぞれの現象の発生のしかたが違い、「言い換え」など傍から見たらまったくどもっていないようになるテクニックを無意識に使うようになると「どもり」の自覚がなくなるし、他人にも気づかれなくなる。
そして、どもりの発生しやすい条件が、人によってまったく違う。端に音(た行とか、「かんだ」「かただ」という組み合わせ)が理由だったり、シチュエーションだったり。
そして、驚いたのが、どもらない状況になる話。
リズムにあわせるとどもらない。俳優で、セリフを言って演じている時はまったくどもらない。朗読も。詩を読むとどもらない。そしてある人はプレゼンでどもりがひどくなるけど、また別な人はプレゼンの場合はどもらない……
そして、そうやってスラスラ普通に話せている状況は、決して本人にとって心地がよくないのだそうだ。本音がぱっと出ているのが「連発」でどもっている状態。演じたり、リズムに乗ったりすると、本音ではなくそれは演技であり、工夫を重ねてなんとか言えている状態で、体が乗っ取られているように感じることもあるという。自分が自分でないという。(そう感じない人もいる)
そういえば、知人の吃音がある人は、英語が流暢だった。脳内で英語に翻訳するという作業を通じていたからなのだろう。
すらすら言えると「どもりが治った」ように見られるけど、本人はどもらない工夫を常に強いられて、自分が自分じゃない状態になってしまう。それで、どもらない工夫をして吃音を周囲にも気づかれなかった人が、どもる自分を取り戻すというエピソードもあった。正直驚いた。どもってるのってつらそうだなと思ったし、流暢に喋れるのをみんな目指していて、そうなれたらハッピーなのかと思ったけど、そうじゃないんだあ。へぇー、と思った。
私もろくにしゃべれない人間で、人前で緊張せずに堂々と話せたら、というのは何十年も思っていることだけど(もちろんそれは小学校から社会人までずっと「声が小さい!」「きこえませーん」といつも言われていたからだ)そのスラスラ言える世界は思いのほか、居心地は良くないのだろうか。そういえば自分でうまくコントロールできなかったイベントが評判良かったりしても全然うれしくないので、それに似てるかもしれない。
改めて、しゃべるって高度なことなんだな、と思った。こんな高度なことなんだから、うまくしゃべれない人がいたって当たり前じゃないか。
私がこの本を実家で読んでいたら、母が表紙を見て、近所の吃音の人の噂話をはじめた。
「吃音の人って、どもれる時は辛くないっていう感覚もあるらしいよ」
と言うと
「そんなことないでしょう!いかにも、顔を歪めて、苦しそうに、してるじゃない」
というので
「この本によれば、そうとは限らないらしいよ」
と言うと、母は言った。
「でも、そういうの、見ているこっちが辛くなるじゃない」
なるほど。そういうことか。
吃音にしろ、私の声が小さくて喋れない件にしろ、他の人が不快だから、不便だから、なんとかしろ、というあくまで他者からの視点で指摘されるだけなのだ。そしてときおり、「かわいそう」というレッテルを貼られて。
そういえば前述の英語が得意な知人とは長い間一緒にいたので彼の吃音が当たり前に感じるようになり、打ち合わせで会った人に「あの人の喋り方(笑)」とこっそり言われて、むかっときた。別に彼はそういう人なだけだ、と思うようになっていた。
喋り方でもなんでも、いろんな人と一緒にいる経験は大事なんだよな。
おかあさん一人でカーシェアで
体がすごく疲れてしまった。どうしても温泉に行きたくなった。
この季節にバイクで温泉に行くと、帰る時には凍えてしまう。おそらく帰宅する頃は行く前より冷えきっている。行くんだったら車を借りていこう。でもそうするとカーシェアのお金がかかる。だったら温泉じゃなくて銭湯に行けばいいんじゃないのか。でも銭湯も結局バスや自転車使っても15分くらいかかって、冷えてしまうんだよね。
行くんだったら風呂がいっぱいあってゆっくりできて、マッサージ椅子がある場所に行きたい。うむ。やっぱ車を借りてちょっと大きめのところに行こう。レンタカー代を考えると1人でいくのは申し訳ない。そこで息子に声をかけた。
「温泉行かない?」
あいまいな返事が帰って来た。だいたい息子は家にいるとゲームをしているのだ。
しばらくして再度声をかけると、自分は勉強するから行かない、という。勉強するからってさっきまであんなにゲームしてたのに? すると
「俺は温泉行きたくないんだよ!!」
と、切れた。
あーそうですか、なんだよ、じゃぁ私一人で行くわ。私は1人でカーシェアを予約して、ベガロポリスの「やまびこの湯」に行った。
日曜日の午後。1人のレジャーは、お母さん業を長年やっていると、どうしても後ろめたい気持ちがある。
だから同意してくれなかった(口実になってくれなかった)息子に腹立たしかったし、1人で楽しむのが申し訳ないと思った。
なぜだろう。なぜ申し訳ないと思うのだろう。
まぁお風呂は大変気持ちよく、マッサージ椅子も2回堪能し、うたたねどころで寝たりもした。ただ、私は車の運転にいまだに自信がなく、夜に恐怖の青葉山を越える最短距離を選んだので、めちゃくちゃ不安だった。
幸い、八木山橋や青葉橋から落下することもなく、帰宅できた。
この日の日帰り温泉は、
- やまびこの湯 750
- ソフトクリーム 350
- マッサージ椅子 400
- カーシェア 1648
合計、3,148円。
3,148円のレジャー。
ああ、こんなにお金を使ってしまった。申し訳ない。
しかし後になって考えると、この値段って一回飲みに行くのとあまりかわらないじゃん。なくなるお金は同じなのに、この気分の違いはなんだ?
飲みに行くのは、息子を伴えないから堂々と1人で行って楽しめるのに、息子を伴える場所に1人で行くのは後ろめたい。そういうことだろうか。
あと、自分が養われている存在なので、他人の稼いだ金で楽しんでいるのがうしろめたいというのもあるかも。
首に鎖がついている気分はどうしてもとれない。自分でちゃんと稼いでいたら、自分の稼いだ分だ、楽しむ資格あるだろう?って言えるのにねぇ。
しかし、と思い直す。
そういえば1人でレンタカー借りてキャンプ行ったりするのも1人でバイクに乗ってキャンプに行くのも後ろめたくない。1人で東京に2泊ぐらいするのもうしろめたくないし、なんだろうな、後ろめたさの基準が不明だ。
「それは家族と一緒でもいいんじゃないか」
という要素が含まれていたら、うしろめたいのか。
よくわからない。
よくわからないが、もっと自分1人で楽しめるよう認知のしかたを変えていきたいと思った。
11月から2月に読んだ本
いっぱい本を読んで、レビュー書きたいんだけど書く時間がない。まとめ。
「ノラヤ」をたたむに至った私をちくちくと刺す本だった。
仙台市の創業支援の方々はこれを読んでいるのだろうか。
薬物依存に対するイメージががらりと変わる。罪をひたすら責めて追い込んで気がすむという現在の状況はよろしくないよね。
コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか (ブルーバックス)
- 作者: 旦部幸博
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/02/19
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面白かった。知らなかったことがたくさん。
面白かった。
私にしては珍しく買った本。
わたしのウチには、なんにもない。 「物を捨てたい病」を発症し、今現在に至ります
- 作者: ゆるりまい
- 出版社/メーカー: エンターブレイン
- 発売日: 2013/02/28
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くそつまんなかった。この著者で何冊も本が出て信者もいてドラマ化もされたなんて信じられん。だってこの人、捨てることの根拠が「自分がいらない」だけ、なんだもんな。
その勢いで家族のものも片付けてしまうので、正直不快感しか残らなかった。
仙台の人だそうだが、そこそこ中心地にそこそこ大きい家を持っていて、震災で壊れたので新築してというあたり、あまりお金に困ったことがない人とみた。進路に対する親の寛大な感じも、貧乏人にはありえない余裕を感じる。お金がふつうにあって、好きなものが買えるからこそ、ものを捨てるのに抵抗がないし、自分が苦労して稼いだお金でものを買ったらそれは捨てがたいという気持ちもないんだろう。
くっそおもしろかった!!
さくっと読めて気分がいい本だった。出て来る人がみんないい人だ。あー大学生ってこういうことやらかすよねぇ、大学ってこういうことあるあるだよねぇ、うんうん。文系の私もわかる世界。
理系の大学院生がみんなこんなに羽ばたける未来あれと思う。爽やかな青春小説。表紙のように、風が通っていった感。
帰省中に散歩していたらブックオフがあって、新春セールをしていたので買った。
ちりばめられたネタをすべて拾える人はいるんだろうか?いるとしたら私と同じおっさん世代だろう。
すごく面白かった。知らない鳥類学者の研究に触れることができたし、なにより文章が楽しい。くっそ楽しい。
つまんなかった。映画化するというから借りてみたんだけど。表紙がエロい。多少のことでは動じない私もこれは息子の目が届かないようにしてしまった。
面白かったー!
柞刈湯葉さんつながりで読んだ。これ、今じゃん。まんま。
ネットの世界じゃないかー。 蛇口を開いて水を流すように我々はブラウザの広告に流されている。
面白かったのでレビュー書きました。
気がむいたら個別にレビュー書きたいです。
化粧をしなくなってしまった
私は中年女性ですので、人前では化粧をしなければならないらしいです。
でも最近、ノラヤ出勤時に化粧をやめてしまった。
正直、徒労感があるのですよ。
メイクするのも落とすのも、めんどくさい、そのために睡眠時間が削られる、食べると落ちる、こすると落ちる、なにもしなくても落ちる、手も汚れる。あんな面倒な思いをして、なんか得られるものがあるのかなぁと。
メイクしてきれいになったら、嬉しいでしょ?
鏡の中の自分に見とれて、心がウキウキして、前向きになって、笑顔になって素敵な自分になれちゃう♪
……うーん。
そう、思い込もうとして数十年。
どうしても、心理的効果より、めんどくさいほうが大きい。
おそらく綺麗になりたい、綺麗になると嬉しいという気持ちが普通の女性に比べて極端に低いのだと思います。メイクだけでなく、スカートも履きたくないし、ヒールも履きたくない。
もともと、休日は化粧していなかったです。
コンビニ行くときもスーパー行くときも銀行行く時も化粧しないです。
うちの母なんかは、昔から
「みっともない」「しないのは恥」「失礼」
って言うんですけど。
そういうネガティブな理由で仕方なくするもんなんですかね。
女性が素顔で外に出ていたら「失礼だ!」「迷惑だ!」「損害を与えた!」って指さされて非難され裁判を起こされるとでもいうんだろうか。
男性はなにもしてなくても失礼にならないのに。
バイトに行くときは化粧します。まぁしなきゃいけないようだし。
飲みに行くときや、まちなかに買い物行くときは、化粧するしスカートも履きますよ。
でも、そういうときってモードチェンジ、加工を施した自分になっている。
化粧して自分の顔がちょっと変わるのは確かに、楽しいです。シミとか薄くなるしキメが細かく見えます。でもその楽しさって「メイクして綺麗になって嬉しい」というより、加工で変化するのが面白い実験的な楽しさ。別に毎日しなくてもいいよめんどくさいし、と思う。
そりゃー若い頃は、化粧したりオシャレしたりすると褒めてもらったりかわいいと言われたりして嬉しかったけど、もうそういう見返りもない。
30代の半ばぐらいだろうか。何年も前から知り合いで、何度も会っているとある男性と、たまたまちょっと濃い口紅を塗っている時に会って、こう言われた。
「あれー。sato_kawaさんが化粧しているの初めて見た」
驚いた。その人に会うときはそれまでも100%化粧していたのに。
男性の女性のメイクに対する認識ってそんなもんなのだろうか。
違う。その方の周囲にはたくさんの美しい人たちがいた。とほほ。私のような地味な女が化粧したところで、化粧していると認識されないということだ。めんどくさい思いをして化粧するのが、ばからしくなった。
顔面偏差値が30から40になるくらい?劣等生が「勉強したって無駄だ」と言う気分が、よくわかった。
たとえ他人から美しく見られてなくても、化粧して気分が上がって自己肯定感が得られるなら価値はあるだろう。
でも、私はそんなんでもないかな。
化粧品、金もかかるしさー。
だったらいつだって汗だくになれて、いつだって温泉に行けて顔が洗えるほうがいい。顔がかゆけりゃ掻いて、ラーメンも骨付き肉もかぶりつける。
あー、そうそう。バイク乗りだから、ファンデーションでヘルメットの内側やゴーグルが汚れるんだよ!!
化粧した顔を鏡で見るより、銭湯で風呂上がりに全身見るほうが自己肯定感があがりますね。
あ、それから、夏は紫外線を防ぐために顔も体も塗ります。これもめんどくさいけど、紫外線による人体への影響は明らかなので、しかたない。