ピアスが刺さらない!
先日、たいへん焦る出来事があった。ピアスが刺さらなくなったのだ。
出がけに化粧して着替えて、最後にピアス……しかしうまく刺さらない、この焦り、ピアス人(?)ならわかっていただけるだろう。
ピアスはいつも、左からつける。
30年愛用しているピアスがある。これ、ちょっと太いので入りづらいんだ。それが、入らなかった。
あれっ。なんどか刺し直す。おかしい。穴じゃないとこに刺した?そうではなさそう。でも、貫通しない。
まあこのレベルのことはよくある。
気を取り直して、一旦、右の耳にピアスをつける。すんなり入った。そして最後左にチャレンジ……またダメだ!
姿見の前でちゃちゃっとやるつもりだったのを、改めて化粧用の鏡をセットし、座って、よーく見てみる。耳たぶの表も裏も、穴がある。ちゃんと見ながら刺してみる。やっぱりだめ。
穴が塞がった?そんなことはないだろう、5日前にも同じピアスをつけて出かけたんだし。私は2週間くらいしない日もある。
ためしに、耳たぶの裏から刺してみる。すんなり通った。なぜだ。じゃあ、表から。うーんこっちからは入らない!
なんでなんで。気ばかり焦る。早く出かけたいのに。
じゃ、このピアスは諦めよう。
ちょっと細めのパールのピアスでやってみることにした。こっちなら刺さりやすい。
……ええええ!?こっちのピアスも、入らない!
鏡に、耳たぶの裏側を写してみた。あと、0.3mmくらいの位置にピアスの先端が透けて見える。皮一枚向こう側に手で触れられる。これを、ちょっと、ずらせばいいだけなのに?全然貫通しない。ダメだ!いっそ、ここで穴をあけてしまうか?いやそれは痛いだろ。やめとこう。だって裏からは刺さるんだし。新たに穴をあける必要はない。
いろいろやっているうちに血が滲んできた。だめだ。いじくりまわすのは限界。そして、この状態でピアスを刺さずに放っておいたら、穴が塞がってしまうだろう。
再度、裏からピアスを刺してみた。またすんなり通った。そこで、表側にピアスキャッチをはめて固定。とりあえず貫通している状態をキープ。これでやっと出かけられた。
髪で隠れるから、耳の裏側にパールがある間抜け状態はよっぽど注意深い人でないと気づかないだろう。
耳を出さないようにしつつ外出を終えて帰宅。今度はパールでなく、小さなカラーストーンのピアスを入れてみる。しばらく貫通した状態にあったせいか、今度は表からもすんなり入った。
安定させるために、そのピアスを数日つけたままにしておくことにした。
ピアスを日常つけないと、こういうことになってしまうのだよなぁ。
あー、参った。焦った。
ピアスは就職して1年目か2年目に両耳に空けた。
しかし、会社員をやめて仕事が変わり移動手段が主にバイクになると、ピアスはなかなかつけないものになった。ヘルメットをかぶるからだ。ヘルメットにひっかかって耳がちぎれそうになったり、実際ちょっと切れて血が出たりしたのは1度や2度ではない。
だが、ヘルメットをかぶらなくていい日は、ピアスを楽しんだ。飲みに行く時、デートに行く時、お買い物に行く時。それでも普通のピアス人に比べると着ける頻度は低いと思う。そもそも化粧もあまりしないし。
やがて私も歳を取り、30半ばを過ぎた頃。異変が起き始めた。ピアスが刺さりにくくなってきたのだ。
私の耳たぶは厚い方だ。刺す時、けっこう距離がある。
歳をとって皮膚、肉体、全体的に「ハリ」がなくなり、ピアスホールにも強度がなくなってきたのだ。だいたい、おっぱいが垂れ始める頃だ。
想像してほしい。トンネルの内壁がふにゃっとなって、全体が重力に負けてたるんでいる中を、突き進まなければならない状況を。
前は「すかっ」と入っていたのが、「うむむむ」と結構な抵抗を感じながら刺さなければならなくなった。耳たぶが薄い人はそんな苦労もないのかもしれない。
こういうたるみ状態だと、ときどき、「ん?貫通しない?」ということが起きる。そういう時は無理に貫通させようとすると傷をつけてしまうので、なんどか刺し直してみる。それでだいたいなんとかなった。
ただ、針のように細めのピアスでは本当に内壁にささってしまうようになった。繊細なデザインのピアスが好きだったのに、ほとんど使わなくなってしまった。
あまり放置しておくと、ピアスホールがなくなってしまうという。それは困る。なにが困るわけでもないけど。
ピアスをつけるっていう選択肢がなくなるのが、つまらない。
あくまで自分の場合だけど、化粧は他人のためにして、ピアスとマニキュアは自分のためにしてる。
ピアスをしない人からすれば、理解できないだろう。おしゃれなんてそんなもん。
バイトをやめて1ヶ月経った
アルバイトを辞めて1ヶ月経つので、その変化を書いておこうと思います。
1. 太った
1ヶ月で、生活強度が下がりました。コンビニ仕事ってだいたい生活強度Ⅲくらいだと思うんですけど、今は当然のようにⅠです。生活強度って何?という人はこちらを。
買い物行く時にバイクや自転車じゃなく歩くようにしたりしても、焼け石に水。
仕事で週3動き回ってたのにはとうていかなわない。確定申告やデスクワーク中心の仕事、簿記の勉強をしていたら、じわじわじわじわと、太りましたよ。1kgくらいですけど。その1kgは、自分が「動かない人」になってしまった証拠ですから、本当に、重い。
あと、声も出してないから、それもエネルギー消費減らしてると思う。
2.結局寝ない
バイトのために朝は早く起き、夜はなるべく早めに寝るようにしていたけどなかなかそうも行かず、慢性寝不足のような状態でした。
バイト辞めて、ようやく、人並みに7時間以上寝れるようになるな!と思っていたんだけど。
結局、朝早起きする必要がないと思って夜更かしして、寝ないんだこれが。
だめじゃん。
3.眠い
これまで、バイトのあとは眠くて眠くてどうしても昼寝しないと持たなかったんだけど。
バイト辞めても眠くて眠くて昼寝している。これはどういうことだろう。
4. 腰痛再発
デスクワーク中心になってしまうと、たちまち、腰痛が再発した。
私はずっと腰痛持ちだった。
20代の頃から整体に通ったりプールで歩いたりジムに行ったり腰痛ベルト巻いたり、いろいろやったけど一進一退。
それが、コンビニで立ち仕事をするようになってから、雲散霧消した。5年ものあいだ、私はもう腰痛持ちではないと思っていた。
それが。
数週間でたちまち、あの痛みがやってきた。
デスクワークする場所が食卓しかないので、机も椅子も仕事用ではない。そのせいかもしれない。コワーキングスペースに行ってちゃんと仕事用のいい椅子に座ると、ましだから。しかし、腰痛のためにコワーキングスペースに行っても今の収入ではお金がかかりすぎる。
スタンディングデスク導入しようにも、そんな場所はなく。
必然的に、仕事へのモチベーションが下がる。10分くらいでもう痛い。仕事したくなくなる。
というわけで、困っている。
来月になるとこれにさらに、「収入が減った」が追加される。
一番困るのが1番と4番だ。中年でこれがあるとダメージがはんぱないのだ。なんとかならないのだろうか。やはり私はデスクワークはしないほうがいいのか。
辞めて良かったことは何か
正直、コロナのマスク欠品とティッシュ及びトイレットペーパーの品切れ騒ぎに巻き込まれなくてすんだのはちょっとほっとしている。
ものを売る商売をしているとこういうトラブルは時々あって、アイコス発売の時も、それはそれはひどかった。だがアイコスの時は明らかにやばい転売ヤーが多かった。今回は一般市民が買い占めに走って店員にごねているそうだから、ほんと怖いし常連さんがそういう人になっていたらと思うと胸が痛い。
あとバイト辞めたら毎晩ビール飲めるじゃんと思っていたけど、敢えて禁酒期間を置いているので、それは全然意識できていない。
運動強度を上げたい
運動強度をあげるには、毎日走るくらいしか今は思いつかないが、やっぱりそれはきついと思ってしまう…
毎日ふつうに生活して仕事してる中でちゃんと体を動かして、アイドリングというか、通常が動いてる状態にしてないと、辛いし、体にもよくないと思うのだが、いい方法ないだろうか……
食べたい食べたい、わしわし食べたい
もうすぐ死ぬかもしれないな。
なんとなくそう思うようになった。
数ヶ月前までは、どこまでもどこまでも遠い暗い道を歩いているようだった。青空がどうやっても見えない、井戸の底みたいなところを、わたし、いつまで歩き続けなければいけないんだろう、という。
ここんとこは目の前に立ちふさがる壁が「ドォオオオオン」と、できて、
「あなたの人生はこのへんで終わりですから。もう進まなくていいですよ」
と、言われているような気がする。
なんの根拠もないけれど。
あ、そうですか終わりですか、しかたない。もう、疲れた。
もう人生で思い残したことはないけど、死ぬのに苦しんだり痛かったりしなきゃいけないのが嫌だ。
私、どうやって死ぬんだろうな。
突然重病を宣告されるのか。バイクで事故るのか。それとも、身近な人に殺されるのか。
大学の後輩が突然死んだことがあった。ふつうに生活していたのに、朝親が起こしに行くと布団の中で息絶えていたそうだ。そういうことって、あるんだ、びっくりした。
20代の子だって突然死ぬんだから50にもなろうというわたしは、もっと死にやすいだろう。
となれば、死ぬ前に食いたいものを食っておかねばならない。
生きていると、食いたいものを好きなだけ食うと、でぶになるし健康に響く。しかしもし死ぬならどうでもいいじゃないか。
とんかつが食べたい。塩釜市場で海鮮丼を食べたい。ラーメンが食べたい。伊藤商店。潮の音。千極煮干。
ちょっとまて。パンも食べたい。パンもいいよ。
ふだんSEIYUの見切り食パンを70円くらいで入手して、その6枚切りの1枚の半分を一食分としているので、普通の菓子パンが150円などで売っていると「食べたいけど、ばからしい」と思って買わないのだ。
これももうすぐ死ぬなら食っておいたほうがいい。
でもわたしはきっと、そういう状況でも、見切り品で安くなったものしか買わないだろう。これは合理的判断だと思いたい。だって味も品質もほとんど変わらないから。
あとごはんだよな。こめのめし。
いくら丼が食べたい。ウニ丼が食べたい。いや普通の牛丼も食べたい。カツ丼も食べたい。カレーライスもいいね。こういうどんぶりもの、ずっと「太るから」と最小サイズを頼み、通常サイズのときはちかくにいる息子に「多いからあげる」と食べさせて、自分の体重維持に励んできた。でも死ぬんだったら、ちゃんと「おなかいっぱい」になるまで食べてもいいんじゃないだろうか。
ポテチも食べたいなー。プリュンゲルスのサワークリーム好きだ。
シュークリームも食べたい。あのほとんど空気でできているしろもの。なんであんなに幸福なのだろう。
からあげ弁当が食べたい。からあげ、だけではなく、弁当になっているもの。
コロッケも食べたい。揚げたては熱すぎるから、ちょっと時間が経ってまだ表面が「さくっ」としているときに。これもいつもは1個しか食べないけど、2個とか3個食べたい。
肉まん食べたい。大福食べたい。プリン食べたい。
こうして書き散らすと、気づく。普段わたしが、いかに食べたいものを我慢しているか、そしてそれが炭水化物ばっかりなのが。
肉や魚や野菜には、この「食べたい食べたい」という気持ちが湧いてこない。そりゃ塊肉にはそそるけど。喉の奥から振り絞るような飢餓感、渇望感の対象は、いつだって、てっとりばやくエネルギーに変換できる炭水化物や糖分なのだ。
「食べたい食べたい、わしわし食べたい、炭水化物を、糖質を」
糖質制限なんて無理だと思う。
「食べるのを我慢する必要はありません。別の食品におきかえるだけ」
などと、やさしくその手の解説書は言うけど。
きらきらひかる米のめしにかわるものなどあろうか。湯気を立てて、はいわたくしエネルギー源でございます、とずっしり存在する、ご飯。
ふんわりしてて、こっちが脱力するオーラを出していて、あの接近したとたんかぐわしい香りと幸福感につつまれる、パンにかわるものがあろうか。
そして日本における食の多様性をこれでもかと体現した多種多様のラーメン。食べ始めから終わりまで一つのストーリーをつむぐような体験。あれにかわる体験があるだろうか。どんぶりに顔を近づけ時には両手でささげ、上半身をぜんぶささげるような、なにものにも邪魔されたくない気分。
なんでそういうのを捨てて置き換えられる気になれるんだろう、わからない。
あー。食べたい食べたい。いつだって食べたい。
「食べたい」を追求する食の冒険への旅は、確実に死ぬ前にやっといたほうがいいな。
「だらしない夫じゃなくて依存症でした」三森みさ
ウェブで見て惹きつけられ、本も買うことにした。予約して、やっと入手できた!待ち遠しかったよ。
酒に限らず、依存症入門としてとてもいい本です。
私、前のブログにも書いたけど、これまでもアルコール依存症の本を読んだ。
「だらしない夫じゃなくて依存症でした」(以下、「だら夫」)に比べると、この2冊はちょっとハードかもしれない。読んだ人が逆に「俺はこんなんじゃねーぞ」って思って見なかったことにしてしまうかも。
それに、この2冊との大きな違いは、主人公が当事者(アル中の本人)ではなく、家族であることだ。アル中の実態!とかでなく、回復の方法とその過程が中心になっている。
当事者もつらいが、家族はもっと辛いのは用意に想像がつくだろう。暴言や暴力を振るわれ、生活は困窮し、家庭も崩壊する。だが、このまんがはそういった現状に目を背けることなく、でも明るく、優しく、もちろん楽しく読める。
今、ちょっと酒の量が多いだけとか、ちょっとパチ屋通ってしまうだけとか、そういう状態の人も読んでほしい。そういう人が家族にいる人も気軽に読んでほしい。
「だら夫」の主人公ユリの夫ショウは、営業職についてから酒量が増え行動も酷くなりやがて仕事にも支障をきたすようになる。ユリの友人や会社の先輩が実はかつて依存症に苦しんだ人だとわかり、彼らが「完治」はしなくても「回復」していることで希望を見出したユリは、行動していく。
スリップとか、自助会や断酒会、家族会などは前読んだ本で知ってたけど、一層わかりやすいし、登場人物の気持ちが胸にせまってくる。
驚いたのは(前にwebで読んでいたはずなんだけど)、ショウのことを保健所に相談に行ったユリと相談員との会話。
旦那さんがお酒を飲んでいることで困っていることを書いて下さい、と言われて、ユリはスラスラとたくさん書く。
では次にユリがどんな生活を送りたいか、書いて下さいと言われ、「夫にこうしてほしい、夫がこうであってほしい……」と、またたくさん書く。それを見て相談員はこう言うのだ。
「山下さん(ユリ)ご自身はどうされたいですか?」
「えっ?夫にお酒をやめてほしいですけど…?」
「もちろんそれも大事なのですが。山下さん自身が
『○○に旅行に行きたい』『数年後こんな仕事をしてみたい』……などはありませんか?」
「私が…………?…………やりたいこと?」
ユリは逡巡したあげく、答える。
「わ……わからないです…………………」
これをまったく同じ体験をしたのだ。少し前。
私もどうしても辛い状況になって、とあるところに相談に行った。その時に「どうされたいですか」と聞かれて「相手にこうして欲しい」としか出なかった。
やはり「あなた自身はどうしたいですか?」と聞かれた。考えて、驚くほど、なにも思いつかなかった。
「……………特に、ないです……」
と答えてしまった。
そう、追い詰められた家族って、やりたいことが消失してしまうのだ。自分の頭の中が今目の前に常に晒されている問題でいっぱいになって。
やりたいことはたくさんある。
実はそれを忘れないように、Evernoteにリストを作って、少しずつ実現したり増やしたりしていたのに。しばらくそのリストの存在を忘れるような精神状態になってしまう。
とにかく、一人で全部抱えないことが大事なのだ。
依存症の回復には孤立しないこと、支える周囲の存在が重要と、あらゆる本でイベントでwebで繰り返し伝えられる。
顔見知りに「助けてください」と言いづらいのは当然なので、相談機関や匿名の自助会がある。(そっちの方が専門家がいるから、下手に知り合いに言って逆効果のアドバイスされたり、お前が悪いと責められたりするよりいい。まんがにも身内に辛いことを言われる例が出てくる)
もちろんまんがだから、展開は早いし多少都合のいいところもある。なにより、現実の周囲はこんなに理解があり暖かくないだろう。でも、この本を読んだ人が、優しい「周囲の人」になればいいと思う。そういう意味で、特に悩んでない、ごくごくふつーの人にこそ見て欲しい気もする。
本は大幅に加筆され、参考資料も充実しているので買って欲しいですが、まずは、こちらから。
さて、わたしも、やりたいことをしよう。
ビールが失われた世界
ビールを自宅で飲まなくなって1ヶ月以上経った。
ただの嗜好飲料350mlをやめただけじゃねーか。最初の3週間はけっこう平気だった。楽なもんだ。これだったら一生辞めてもいいな。
ところが。日が経つにつれ、ビールに結びついた生活のさまざまなものの多さに気づき、それが失われた日々を過ごしているもの哀しさを感じるようになった。
元アル中のコラムニスト小田島隆さん著「上を向いてアルコール」を、以前読んだ。
その中に酒を絶った後の世界を、「4LDKの部屋に住んでいるのに、アルコールのある部屋2部屋に入らず残り2部屋だけで暮らす気分」というように表現していた。
今はとてもよくわかる。
たとえば。チータラ、ビーフジャーキー、ポテトチップス、柿の種、バターピーナッツなどの塩っぱいスナック。 これを買って来る時は自動的に「ビールとともに」と思っていた。飲まないので、全然買わなくなった。
料理もそう。アヒージョ、牡蠣のオイル煮、生ハム、ジャーマンポテト、大きなフランクフルトにザワークラウトとマスタードを添えたもの。チャーシュー。これまでビールとともにあった料理たちが、とたんに色あせた。そりゃ、おかずとしてごはんと一緒に食べればいいけど。なんだかちがう。私は反省した。これまで、自分はビールを飲んで、こういうつまみ系料理をごはんのおかずに出して、度々息子に「酒のつまみじゃねーか!」と文句を言われていた。息子の気持ちがよくわかった。すまんこれは酒のつまみだ。
餃子や焼き鳥、麻婆豆腐、唐揚げ、アジフライ。ごはんのおかずになるこれらの料理も、やっぱりビールとともに食べたい。おいしいよ。おいしいんだけど、なにか、さみしい。
結果、食べ物の選択肢が、かなり減ってしまったのですよ。
寂しいといえば、夕暮れにビールがないのが寂しい。
私は綺麗な夕焼けを見た時、綺麗な季節の移り変わりを見た時、
「ビールとともにこの景色を見たい!」
と思うのだ。わかってくれるだろうか、誰か。短い時間しか訪れない、自然現象と季節の美しさを祝福したいこの気持ち。
そんなこといって、たいてい他に家事だのなんだのやって、ビールを実際に飲むのは夜になって落ち着いてからになるのだけど。
それでも、夕暮れに「ああ、ビール飲もう」と思って、冷蔵庫においしいビールがあるという、それまでの時間はとても幸せなのだ。
そのほかにも、ふわっと日常にやってくる、ビールな気分とでも言ったらいいのだろうか。
今日はいい日だったからビール飲もう。
嬉しいことがあったから一人祝おう。
がんばって10km走ったからビール飲もう。
お風呂から上がったらビール飲もう。
ビールな気分をつかまえて、大事に育てて、「よっしゃ飲むぞ!」って、ビールを飲む…それが、たまらなく好きなのだ。
しかし。今は、ビールな気分が湧いても「いや、今私飲めないし」と、それをしゅっとしぼめる。冷水をあびるがごとく。がっかり。さみしい。
夕焼けを見て、青空を見て、「あー、ビール」と思いながら感じる幸せ。今日のいちにちを幸せな気分でしめくくるビール。それが失われてしまった。
ちなみに、いつでもそういう素敵な飲み方していたわけじゃない。どうしてもガソリンが必要だから飲む、という時もあった。
一番多いのが、夕方飯を作る時だ。
この飯を作るのがたまらなく嫌でめんどくさいのが定期的にやってくる。体が疲れているからでも、仕事が忙しいからでもなく、なにをどうやってもモチベーションが上がらない。
そういうときは、(揚げ物など手先が鈍ると危険な作業は終わってから)プシュッと缶をあける。爽やかな香りを吸い込んで、喉を液体が通り過ぎて、「はああ」と、一息つくと、全身にじわっとなにかがみなぎって、ちょっとやる気が出るのだ。
「めしつくるの嫌い、死ぬほど嫌い、逃げたい」といいう袋小路の思考から抜け出し、「あの食材であれでも作ろうか」と、考えがポジティブになる。よし、音楽でも聞くか、とイヤホンをつける。そうやって、ようやく、飯が作れる。
しかし先日はそれができなかった。どうしても飯を作るのが嫌で嫌でしょうがなくて、ついに家族に頼んで弁当にしてもらった。家族は自炊主義者ではないので喜んで近所のお弁当屋さんのからあげ弁当を食べた。この時の出費は自分のこづかいである。ああくそ、金がかかる、と思いながら自分はラーメン屋にラーメンを食べに行った。缶ビール一本なら200円前後なのにこの時の出費は1500円である。
ビールって、飲むと「ようこそビールの世界へ」という風に世界が変わる。「ああ、来たかったよ、やっと来た」というときもあるし、「嫌だから逃げてきた!」というときもある。私はビールの世界の住民になって、ほがらかに幸せに生きるのだった。
でも、その世界への扉は、今は、パタンと閉じられている。行こうと思えばいけるけど行かない。
さて、ビールを飲まないことで得られたものについても言及しておかなければ。
実際、飲まないメリットはとても多い。
自宅で飲まないことにしたら「夜、思い立ったらいつでもバイクに乗れる!」と気づいた。当たり前だ。前は、飲んだらその日は閉店!で、体も脳も動かない。世の中には飲みながら知的作業ができる人もいるらしいが、私はできない。飲んだあとの時間は飲んで食って寝るしかない不自由時間なのだ。
急に欲しいものがあるとき、バイクにまたがってさくっと買えるわけだ。便利だ。
そういえば飲んだ翌日はどうしても体の動きが鈍かった。習慣となっているトレーニング3セットをすれば体は起きるのだけど、やってる間がちょっときつい。
ビールをやめてた理由の一つは勉強時間を確保することだ。今まで酔っ払ってふわふわしていた時間に、私は簿記の勉強をガリガリと進めた。
SNSで無駄口を叩かなくなった。スマホからSNSのアプリも消しているんで、気軽には書けない。
そして、酔っ払いがすごく「バカ」に見えてきた。
酒を飲んでグダグダ崩れている人を見ると、心底くだらないと思うようになった。
酔っ払いがバカにみえるということは、飲んでない私が賢く思えてしまうのだ!この優越感は素晴らしく気分がいいぞ。
ただ、ストレスがたまるようになった。
息子の受験、自分の資格試験、バイトをやめたことによる環境の変化、(そしてもう一個最大のストレス源、今は書けない)、そういうストレスを、「気合い」「気力」だけで乗り切れるほどの若さと体力がないのですよ。
ビールを飲まないなら、ちゃんと別の幸せになる手段を用意して、定期的に摂取するようにすべきだった。そうでないと、一番手軽な幸福にひたることになる。それは「食べ物」である。せっかく美しい体型を維持しているのに。立ち仕事をやめた運動不足も相まって、悲惨なことになりそうだよ。
幸せマネジメント、だいじだよなぁ。金もかからずどっぷり幸せになれる方法を用意しとかないとダメなのだ。これは今後も気をつけたい。
ダラダラ文章を書いているうちに、ビール解禁の前日となった。
なんだかんだ言って、長かった。明日が楽しみだ。
なんとなく想像はつく。
飲むと、「あーおいしい。でもこんなもんだっけ。私があれほど渇望していた飲み物は」と、なるんじゃないかな。
どうでもいいパンツ
どうでもいいパンツ。
というジャンルのパンツが、私にはあるのですが。
この場合の「どうでもいい」は、二重の意味を持つ「適当」という言葉に近い。その場その用途に適切であり、かつ特に限定もしない投げやりな感じも含む。
面倒だが我々女性はパンツとブラジャーを着用しなければならず、ふつう、同じデザインで合わせるらしい。バラバラに売ってはいるが、セットにもできる。私も可能な限り合わせる。
しかし、なんらかの理由で「ずれ」が生じること、ないですか?
このブラジャーに合わせるパンツが、いまちょうどない。洗えていないとか乾いていないとか、先に劣化してしまって捨てたとか、なんかよくわかんない理由とか。そんなときに「どうでもいいパンツ」の出番だ。
どうでもいいパンツのデザインは、あくまでシンプル。色は汚れが目立ちにくい、黒とか紺とかボーダーとか。レースはあってもなくてもいい。へそまであるハイライズなど、ダサすぎるのは自分で見て落ち込むので避ける。
そして、履き心地が重要だ。ブラジャーとセットのパンツは、パンツというよりショーツと呼ばねばならないような、繊細なレースとポリエステルのつるっとしたかんじ。もちろんそういうのを履くのも気持ちいいんだが、どうでもいいパンツは、綿100%であって欲しい。かといって、オーガニックコットンで徹底して肌触りを良くしました、なんていう優等生高級パンツは求めていない。ぶかぶかではなく、ほどよくフィット。
とにかく、履いて「ほっ」とする感じが欲しい。かつ、パンツ単体でそこにあって、がっかりしない程度のデザインであってほしい。
どうでもいいくせに注文がうるさいが、さらに重要なのが値段だ。
どうでもいいパンツだから、安くなくてはいけない。絶対1000円超えてはならない。正直500円も超えたくない。
まず思いつくのがユニクロだろう。だがわたしはユニクロのパンツは何度か穴があいてしまったので、避けてる。
シンプルで丈夫といえば、無印良品もいいかも。10%オフのタイミングで買えたらね。
さあどうでもいいパンツを買おう。
私が向かうのは、イオンだ。
ワコールやトリュンプの華やかなエリアをくぐり抜け、イオンオリジナル商品の棚へ向かう。そこに、2枚で税込み968円のパンツエリアがある。
これぞ、素晴らしき、どうでもいいパンツだ。
デザインもカラバリも豊富。個人的にはもっと派手な色のものもほしいけど。
でも本当にいちばん目的にかなっているのだ。そして何年経ってもなくならない。ありがとう、イオン。これからもわたしのけつに寄り添ってほしい……
ふとタグを見たら、イオンのパンツは綿100%ではなかった。あれっ?そうなのか?綿にしてはふわっとしてると思ったら……でも、いいのだ、肌触りがいいから。
どうでもいいパンツ。ブラジャーとセットのパンツがないときに、私を助けてくれる。
ランニングのあと、スポーツ用のショーツを脱ぎ、シャワーを浴びて、どうでもいいパンツを履く。心地よい筋肉痛をやさしく包んでくれる。
温泉に行ったら、ゆあがりに、どうでもいいパンツだ。
具合が悪くて寝ている時も、やっぱりどうでもいいパンツがいい。
私にはささやかな夢がある。
どうでもいいパンツを履いて、上はユニクロのブラトップか何か、その上にゆるっとしたジャージのワンピースを着て、部屋をあったかくして、1日、ごろごろするのだ。
今、私には自分の部屋というものがない。寝室もないから、ごろごろする場所もない。
独身の時は、休みの日にごろごろしようと思えばできたのに。
なんだかんだと用事や家事に手をだして、のんびりしてなかったんだよなー。
いつまでもあるとおもうな、ごろごろ環境。
だから、ごろごろするとしたら、ビジネスホテルや旅館に一人で泊まるしかないのだ。温泉旅館に泊まってさあ、好きなだけごろごろしたいよな。
どうでもいいパンツは、解放の象徴だ。
それを履く時、わたしはちょっとだけその夢に思いを馳せる。
優しさは暇でできている
以前息子と会話していて、息子は「俺が優しかったのは暇だったからだ」と言った。
ちっちゃい頃から息子は「優しい子」だった。年下の子の面倒をよく見て慕われていた。中学高校と思春期を経て気がつけば「優しい」と思うことがなくなった。思春期にピリピリするのは仕方ないとして。ふとそういう話をしたら、息子が「暇じゃなくなったからだ」と言った。勉強だの部活だので余裕がないと、優しくなんてできないという。
これは真実だと思う。
だれかに優しくするためには、心の余裕が必要だ。
ずっと生活が苦しかったり、誰かを憎み続けたり、ずっと後悔しつづけていたり、とにかく、日々をこなしていくだけで精一杯のときに、優しくはできない。他人より自分を優先しないと生きていけないような、そういう状態だと、誰かをおもいやるまでに気持ちが至らない。
ときには、悲惨な状況でありつつ優しい人もいる。そういう人を見ると立派だなぁと思うし人格者だなぁとも思う。
でも結局そういう人も、余裕をなんらかの手段で手に入れているのではないだろうか。はたからみるとものすごく大変でも、心の中に凪のような平静を、ときどきでもいいから、すーっと、持てたら。そうしたら優しくなれるのではないか。
どうしたらそれは手に入るのだろう。
人によっては宗教であったり、愛であったり、瞑想であったり、無我夢中になれるものであったり。
映画や演劇を見たあと、もしくは本やアニメにすっごく没頭した後。
妙にニヤニヤしてふわふわすることがある。
あ、私いま絶対へんな人だなぁ、おかしいよなぁ。でもなんだろうこのいい気分。いつまでも持っていたい。
そういうとき、人に優しくできるような気がする。
誰かの人生や体験に憑依して、今の自分の抱えているのを一旦捨てて。いや、捨てはしなくても、客観的にちょっと遠ざけておいて。
そうやって心に「暇」を作る。
ときどき、そうしたほうがいいのかもしれない。