仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

ビールと温泉と面白いものが好きな大学生男子の母。

コインランドリーはいいな

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最近、洗濯物は自宅の洗濯機で洗ったあと、コインランドリーの乾燥機で乾燥させている。3回分の成果物をゴミ袋につっこみ、自転車の後ろにゴム紐でくくりつけ、自転車を漕いで3分。愛用のコインランドリーに持っていく。

  

洗濯物干しは、つらい。週に2日、3人分のたまった衣類を洗濯する。洗濯機を回している間は他のことができるのでよいが、干す作業が辛くてたまらない。干すのに先立って、まず、乾いた洗濯物を洗濯物干しやハンガーから外す作業をしなければならない。そのとき乾いていないものもあったりするから、確認しつつ。干す場所ができたらようやく、濡れた洗濯物を干していく。シワを伸ばし、絡まりをとき、裏返しになってるのを直し、靴下はペアにして…小物は小物干しに。シャツやTシャツはハンガーに。面倒な単調作業の繰り返し。

あまりに辛いので「手伝って」と言う。家族もこの作業が大嫌いらしく、たいてい不機嫌になって怒りながらやる。イライラされるのが嫌なので、結局手伝いを頼まなくなって、私一人でやるようになってしまった。

まるで罰をうけているかのような気分で延々と洗濯物を干す。干し終わったら疲れ果てて寝たくなる。

はためく洗濯物はしばしば幸福な生活の象徴として描写されるが、それは男性の感覚だろう。私は見るだけで疲れる。

私はその作業にどれだけ時間をかけているのだろうか。

ふと思いついて、測ってみた。干されている乾いた洗濯物を外す時間も含む。

なんと、干し終わるまで30分もかかっていた。

30分もかけて干しても、その洗濯物が乾くのは、何日かしてからなのだ。むなしい。なんだかすごく馬鹿らしくなった。もちろんうちには浴室乾燥機などというものはない。

だったら、コインランドリーで乾かそう。お金かかるけど。吊るしたりハンガーに通したりする作業が不要の上に、40〜50分後にはもう乾いているのだ。

 

というわけで、コインランドリーの乾燥機を使うようになった。

おもいがけないことに気づいた。乾燥機のとびらをあけると、ほんわかと幸せを感じるのだ。一瞬だけどね。

乾燥機のとびらをあけた瞬間、あったかい空気が溢れ出てくる。手をつっこむと、完璧に乾いた洗濯物のやわらかな感触。冷え切った指先がたちまち、暖かさに包まれる。タオルや衣類を一枚一枚取り出して、軽くたたんで、またゴミ袋につっこむ。洗濯物を干す時の重い気分と違って、こっちの作業は軽い気分になる。持ってきた時にはあんなに湿って冷たくて重かったものが、こんなにあったかく軽くなった。

できればこの洗濯物の山に顔をうずめたい。ああ、文明の利器はありがたいなぁ。

 

私が使っているのはいちばん近所のコインランドリーで、築数十年の4階建てのアパートの1階に併設されているところだ。

昔ながらの縦型洗濯機が4台、うち1台は壊れて修理されないまま。乾燥機は2台。

古いし薄暗い狭い。どっかの公園から持ってきたような木のベンチが2つ。その足元には薄汚れた缶の灰皿も置いてある。奥にはアフタヌーンなど青年向け週刊マンガが数冊、これまた年季の入った棚に置いてある。それでも、管理者か大家さんが1階に住んでて掃除しているらしく、ゴミが散らかっていることはない。お正月には鏡餅も備えられていた。

 

いまどきのランドリーはもっと明るく、広く、空調もWi-Fiもあって、カフェが併設されてるなど充実しているらしい。そういうところもあることはあるんだけど、そこに行くには重い洗濯物を載せてすごい坂道を登らなきゃいけないし、このボロいランドリーのほうが近い。そもそも時短のためだし。

それに古くてボロいところはなんとなく好きだ。

なんてことをいいつつ、めっちゃ綺麗なランドリーがもっと近所にできたらそっち行くだろうな。

 

そういえば忘れていたが、かつて乾燥もできる洗濯機を所有していた。息子が布おむつだった頃にたまに使ったが、頻繁にブレーカーが落ちる。アンペアをあげられない借家だったので、どうしてもという時以外使わなくなった。水分を大量に含んだ排気がそのまま室内に出ないよう水冷する機能もあったはずだが、あまり効果は感じられなかった。

思えば、当時は洗濯物も少なかった。しょせんこどもサイズ。今は大の大人3人前である。冬は着用する枚数も増えるから、たいへんなのだ。

一回500円。冬だけだし。

 

幸い今まで、洗濯をする日に雪や雨に降られていない。自転車かバイクでないと洗濯物は運べないので、悪天候の日はこの技は使えないだろう。それが難点。

ただ、いずれ、個人で洗濯機や乾燥機を所有するのは少数派になっていくように思う。コインランドリーにはこれからもお世話になるだろう。ちょっとだけ幸せも味わいたいしね。

「退屈すれば脳はひらめく」

スマホSNSもやめましょうやめましょう。バカになります。

……という極端な本ではないですが、改めてスマホSNSとの付き合い方を考えるきっかけになりました。

 

スマホとネットがあれば、いつでも誰とでも繋がれる。いいね!を送ったりもらったりで承認欲求も得られる。

そんなのにちょっと疲れてしまった。 

退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放す

退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放す

 

スマホのおかげでいろんな人と繋がれた、仕事ができた、コミュニティに繋がれた。

在宅勤務もOK、リモートワークバンザイ、テレワーク最先端すごいね。

なんでもググれば解決。

 

で、スマホ以前はどうやって暮らしていたかを忘れてしまった。

 

 

常に繋がっている快感が、快感でなく当たり前、日常になってしまっている。

あらゆるものがバックグラウンドで処理され、並行でことがすすむ。

疲れるじゃないか。

疲れるのいやだよ。

ノラヤもなくなったから「常に情報発信しなければ」のプレッシャーも、いまは、ない。

 

「脳がひらめく」ために自分の行動を変えるつもりはさらさらなかったけど、「あ、でも、べつにいいか」と魔が差したような気分で、アプリをかなり整理した。

FB起動はすぐできないようにしたし、通知も来ないようにした。「いいね!」した多くのページにいまや興味がなくなったので、いいねを取り消すかフォローをやめた。

twitterはアカウントをスマホから消し、必要だったらPCからやるようにした。(というか、最近twitterがちょっとこわい。自由に書けなくなってきた)

Instagramは、ある一つのビールのお店がInstagramしか使わない方針なので入れていたが、そこに行く機会もいっこうに訪れないため、やめた。

ていうか、禁酒中だし。

 

繋がりなくなれば、それはそこまでの関係ってことで。

 

 

誰かに見せるためでも拡散してもらうためでも「いいね!」や「うけるね」をもらうためでもなく、ただ自分がやりたいから行動していた頃に戻ってみる。

いいんじゃないかな。

禁酒(?)してみる

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1/4はArgon Brewingの一周年でお得だったので飲みすぎるくらい飲んでしまった。ビールは相変わらず素晴らしくおいしくて、IPAのふわっとした香りが何日たっても蘇る。しかし、これで心置き無く禁酒ができます。

というわけで禁酒(?)です。

といっても、月に2日くらい飲みにいくのはOKにします。自宅でのビールその他をやめます。

 

理由?大きく2つあって。ひとつは願掛け。

息子が大学受験ですよ。好きなものを我慢して、息子が万全の体制で受験できるようにしなければ。私も簿記の資格をとろうとしています。頑張ってる人がいるし私もがんばんなきゃいけない。

もう一つは、やっぱりアルコールの害が気になるから。

なにかしながら飲むというのがよろしくないなと思うようになったから。飲みすぎの人を注意するのに自分が酒飲んでちゃ説得力ないからねぇ。

そんなこと言って。外じゃあ、がんがん飲むってことでしょ?

と言われそうだけど、そのようなお金の余裕はありません。

 

2/26、国公立前期入試が終わるまでは、そういうことにします。

これまでも週に3日は飲まないようにしてきた。それが週に7日になるだけだ。えー?…うーん、ちょっと辛そうだな。でも決めたのは昨年だ。

年々と酒には弱くなってきているので、自宅で飲む時も350缶一本だけなんだけど。飲まないほうが勉強もはかどるし、ランニングにもいく機会が増えそう。

そんなかんじ。宣言でした。

 

2019年に読んだ本リストと、よかった本

読んだ本のリストを書いておく。

朝日新聞の書評特集で今年の本で印象に残ったものを各界の著名人が3冊あげる企画を見て、自分も読んだ本を振り返ってみることにした。

本を置く場所が6月からなくなってしまったのと、お金がないので、本はほとんど買わず図書館で借りる人です。

これはよかった!というのは◎してます。

雑誌は、ときどきTarzan買ってる。実戦で一番役立つのはTarzanかもしれない。

やっぱりいちばん印象的なのは、柞刈湯葉さんの小説と、東畑開人さんの本かなぁ。

ものすごく話題になったのは、「居るのはつらいよ」だけど、個人的には「野の医者は笑う」が、いろんなもやもやが晴れて、最後のオチまで感動的な(一応心理学専攻だったので)すごくいい本だった。学術書じゃなくて読み物として読める。 

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

 

 いろいろ思うところもあって、今年は以前から興味があった依存症に関する情報を集めていた。仙台でのイベントで生の松本俊彦先生も見れたし。また発達障害に関しても興味があって、なんらかの生きづらさを感じている人の生き延びる方法を著した本を秋頃からどかっと読んでいる気がする。

 

前から言ってるけど私は本が苦手で、本の虫という人に比べて活字を追うのが苦痛な上に頭に入ってこなくて、ここで挙げた本の中でもどうしても読み進められなくて読むのやめて図書館に返しちゃった本もある。

でもほんと読めないんだけど、お金も技術もなければ頭を鍛えるしかないってことで、今年はもっと本読みたいと思います。

2019年の10大ニュース

去年はこういう年でした。

 

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今年も振り返ってみようと思います。

 


1. ノラヤをクローズした

まあ、一番はこれですよね。

5年ほどがんばって運営した、仙台の小さなコワーキングスペース「ノラヤ」を、閉店しました。

閉店にあたっての心境はこのあたりをお読みください。あれから何ヶ月も経つけど、一人になりたい時に夜通しこもれる場所がないのは寂しいな、とたまに思い出す。

ちなみに、ノラヤのあったアパートは老朽化のため取り壊しが決定しました。でかいマンションでも建つのかなー。sendaiworkspace.hatenablog.com

 

ノラヤをオープンした年はこんな10大ニュースを書いていました。あの時すごく辛いことを経験し、実は今年も同等の出来事があった。そんなに落ち込まないで済んでるのは、結局バイトとビール活動に救われてるかな。

忙しいと心を亡くすけど、なくしたい心もある。 

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2. 秋田高校卒業30周年同窓会に出席

2019年のお正月は珍しく実家に帰省。

目的は、秋田高校の卒業30周年同窓会に出るためでした!私は非常に影が薄い人間だったもんで、みんな覚えてるかなー、話合うかなーなんて思ったけど、行ってよかった!懐かしい人、変わった人、変わってない人、いろいろで、いいもんですねー。

亡くなった先生がけっこういらっしゃったのはショックだった。

3. 夫がまた転職

今の会社は私の知り合い経由で入ったんだが、仙台に仕事がないっちゅーことでほとんど単身赴任。で、ついにあの会社に入ってしまった。知り合いばっかなんだけど。まぁどうでもいいです。

4. びあけんを受験した

ついに東京まで行って「ビール検定(びあけん)」を受験してきました。2級・3級併願です。無事両方合格いたしました。その時飲んだIBREWのビールがほんとに美味しかった!

 

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 5. ビール活動

ビール活動を引き続き行っていました。仙台でもクラフトビールが飲めるお店が増え、東北で新しいブルワリーも続々と登場しています。今後も情報集めていきたいものです。

ビール女子さんと行ったこちらのイベント。個人的にはもっとビール好きな女子と濃い話ができるイベントだったらなあと思ったのですが。

やっぱりビール好きにはビール屋に行かなきゃ出会えないと思いました。べつに女子でなくてもいいし。

2020年はもっとリアルでビール好きさんに会ってビール情報を仕入れたいと思います。気仙沼のBTBをはじめ、ブルーパブ目当てに旅行したい。monyakata.hatenadiary.jp

6. 遠野にビール飲みに行った

桜の時期に、遠野醸造に行きました。良かった。みんな遠野行きましょう。

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7.ハーフマラソン3回完走

10kmが物足りなくなりましたので今年はハーフを走ることにしました。

吹雪の中の東北風土マラソン

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そしてビールとセットで楽しんだ、遠野じんぎすかんマラソン。 

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遠野よいとこ、みんなおいでよ。

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飲み過ぎで翌日死んだ。

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そしてそして!ついに念願の、松島ハーフマラソンに、ハーフで出ましたよ!温泉もよかった。走った後寒くてビール飲めなくて残念だったけど。

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8. 実家のネコが死去

一年前からずっと、もう危ない、と言われ続けていた実家のネコ、クロがついにその長い生涯を閉じました。8/6。享年、18歳。

本当によくがんばりました。人間でいうと90超えてます。ほぼ毎日のようにタクシーに乗って病院に行って点滴をした母も、本当にお疲れ様でした。

母のペットロス、燃え尽きが心配です。今後は自分が母をサポートしなければと思います。

 9. 念願の大沢温泉に行った

大沢温泉の自炊部行ってきました。別に秘密にするわけでないのですが、あの大沢温泉という異空間にいた思い出をあんまり消費したくなくて、どこにも書いてないし言ってない。

大沢温泉について知らない人はいないと思うけど

www.oosawaonsen.com


10.いろいろ転換期 

いろいろ準備してます。このままじゃいけない。

息子が大学生になったら自分で自分の人生を生きたい。

Facebookどうしよう

Facebook(以下、FB)との付き合い方が、さいきんどーもよろしくないように思う。

コワーキングスペースやその運営者とつながりを持つのがほとんどFBだったので、コワーキングスペースに興味を持ち始めたあたりからどっぷりはまった。

ノラヤが始まってからは、運営の要がFBページだったので、とにかく水を飲むように使っていた、使わざるをえなかった。

 

ノラヤをやめたら、ぷっつりと使う機会が減った。

あの、日々の「情報発信しなければ!」という追われている感がなくなった。

反応があったときの「ベルに赤い文字で数字の通知(かつては地球に数字の通知。これ、なんて呼ぶんですかね)」が、全然ない日もある。

当たり前だ、発信してないのだから。

 

ただの個人になった今、使い道ないもんだなぁ、と改めて思っている。

私は立派な活動しているわけでもないし、日々社会問題を追いかけているわけでもないし、どうしてもFBに発したい情報なんて、ノラヤがなくなったらもうぜんぜんなくなってしまった。うまいビール飲んだとかどっか行ったとか、リア充自慢くらいしか使い道ねーなというかんじ。

あと、なんかがんばったから褒めて!に使うようになった。ランニングとか、びあけんとか。

承認欲求の塊とはよく言ったものだ。

「つながり」…という意味でも、新たな繋がりは増えなくなった。そしてtwitter経由のつながりのほうが増えた。そう、偶然の面白い出会いってtwitterのほうが多い。

名刺交換の時に渡す名刺がないので、じゃぁFBで、となることもあるのだけど、名刺交換したあとつきあいがないと名刺も捨ててしまうように(私は捨てる。で、困ったことはない)その後付き合いがないと友達も切ってしまう。

 

よくないなーと思うのが、その「ベルに数字」がつかないので、FBを見るのが「誰かの反応をチェックする」から、「乗っかってる情報を無限に探しに行く」になってしまって、前よりだらだらFBを見るようになったことだ。

「…今日も特に反応ないか。当たり前だよね。じゃあビール女子グループを見て新しいビール情報を。だらだらだら。あ、あの人最近なにやってんだろ。へー。だらだらだら。ん?こういう情報あるんだ。リンク先を……だらだらだら」

こんな感じである。

 

twitterも無限に見ようと思えば見れるけど、なぜかこっちは「飽きる」。そして私は変わった人をたくさんフォローしているので大量に見ると必ず怒ってる人に出会って「疲れる」。それで離れられるのだ。

 

まぁ、見てる時間で言えばtwitterの方が実は長いかもしれないけど。

FBがどうでもよくなってくると、ますます、素晴らしいコワーキングスペース運営者とかキラキラした世界から遠くなってしまうような気もする。

でも離れてみても、いいのかもしれないな。

 

Bさんのこと

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そういえば今年、Bさんが亡くなった。

なのでBさんのことを書こうと思う。

 

大学勤務時代に、近くの部署にいてお世話になった方だ。私が勤め始めたころ彼女は妊娠していて、彼女が出産して産休から復帰した頃こんどは私が妊娠した。年齢も母親としても一年先輩だ。

 

私も彼女も、大学の裏方部門の教員(当時の助手)だった。大学組織は先生と学生と事務の存在が大きく、ネットワークやコンピュータの面倒を見る私らのような技術部門は仕事がやたらあるくせに日陰の存在で、また先生と事務の板挟みになり苦しむことがしばしばあった。そんな面倒で孤立しがちな状況でも、有能な彼女は技術とコミュニケーション能力を生かし、先生方にも事務方にも顔が広く笑顔でバリバリと仕事をこなしていた。

 

Bさんは妊娠・出産、育児そして保育園についてもいろいろアドバイスをしてくれた。病院ではこうだった、あれがあったほうがいい、これは無駄なので買わなくてもいい…当時は今ほどネットに情報がなかったから、Bさんのアドバイスは本当に参考になった。使わなくなった妊娠線予防クリームをもらったし、産後の骨盤体操も教えてくれた。

バスを乗り継いで出勤していたお腹の大きい私を、車で自宅まで送ってくれたことも何度もあった。

娘さんの保育園をお迎えのついでに見学させてもらったこともあった。

車の中で「バナナが一本ありました〜♪」の歌が流れると、チャイルドシートでぐずっていた娘さんがはっと泣き止んで人差し指を立てた。必ずこうするんだよね、と笑いながら話してくれた。

私の出産後は、不要になったおもちゃやベビーチェア、いろいろな育児グッズをくれた。家に車で持って来てくれて、私をみたとたん

「ああ、体型戻ったね!やっぱ母乳だよね」

と、サバサバした彼女らしいコメントをしたのがおかしかった。

 

息子が1歳になる頃、仕事復帰の話をいただいて、Bさんに電話で報告すると

「働いたほうが絶対いいよ!あの家にいたときの閉塞感…!」

と、背中を押してくれた。

この時の「閉塞感!(へいっそくかんっ!)」という言葉をBさんがすごく力を込めて言い放ったので、私はほっとした。家で子供と向き合っている時間がとにかく辛くて、母親失格なのではと悩んでいたから。この時の「へいっそくかんっ!」の口調は、なんども脳内再生できるくらい覚えている。

 

その後紆余曲折を経て私は再びパート勤務で元の大学の部署に戻ることになる。

Bさんの部署は人員が増え、私の部署は逆に削減され、1人の教員がいるだけだった。Bさんとは時々、一緒にランチして仕事の話から育児の話などいろいろ喋った。

 

正直、Bさんのことは、同じ部署の唯一の同僚であり上司のMさんほど印象には残っていない。典型的理系研究者のMさんは他部署とうまくやるのも苦手で孤立していたし体調を崩して音信普通になったりして、とにかくいろいろ大変だったのだ。

最終的には私の部署はBさんの部署と統合されることになりMさんはだったら辞めると辞めてしまうのだけど、私はそのだいぶ前になしくずし的に自営業をスタートして大学も辞めていた。

 

その後Bさんと特に連絡をとることもなかった。でも、Mさんが亡くなった時に連絡をくれたのはBさんだった。当時Mさんは大学を辞めて1年以上経っていたのだけど、Mさんのお兄さんがそれを知らず大学に連絡したのだ。

(その時の気持ちはmixiに綴ったけどmixiやめちゃったのでもう見れない)

葬式の翌日、大学関係者の参列があまりに少なくて、やるせない気持ちになり花を買って大学に突撃した。

Mさんの座っていたサーバ室の席に花を置いてぼんやり立ち尽くす私を、Bさんはランチに誘った。

「Mさんがあのときなんで辞めなきゃいけないのか正直わかんなかったんだよね」

Bさんとしては一緒にやりたかったのだろう。そういうとこがMさんの不器用で意地っ張りなとこなんだよなと思った。

 

それからBさんとは、必要な時にちょっとメールをやりとりするくらいで、ここ数年はやりとりは途絶えていた。震災の年だったか、仕事で大学に行ったときにばったり学食の横で会った。その時もお互い急いでいて挨拶したくらいだった。Bさん、相変わらず若いなあ、と思った。

まさかそれが最後になるとは。

 

Bさんが亡くなったと教えてくれたのは、Mさんが亡くなった時に私が最初に連絡して、一緒に告別式に行ってくれた知人の大学教員。

バイトを休めず告別式には行けないので、弔電を送った。

本当に驚いた。

喪主が娘さんだったことを知人が教えてくれた。息子の1個上ならまだ19歳。

なにがあったのかはわからないまま。

5年以上もBさんのことは忘れていたのに、改めて、いろいろ思い出した。

大学の中の特殊な部署にいて、女性がほとんどいなくて、もちろん先輩お母さんなんて周囲にBさんしかいなくて、その状況でBさんの存在がどんなに心強かったか。「貰ってくれてかえってありがたい」とたくさん育児グッズをくれたのに、お礼もろくにしないままだった。

Bさんなら「いいのいいの〜」と軽く言いそうな気がするけど。

 

本当にありがとうございました。