仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

ビールと温泉と面白いものが好きな大学生男子の母。

サイエンスイベントは誰のためのものか

縁あってノラヤで「サイエンスバー」というイベントをやっている。もう15回開催した。「一般の人たちが、気軽で楽しい雰囲気の中、お酒と料理を片手に、サイエンスの専門家の話を聞いてサイエンスへの抵抗を無くしたりサイエンスに興味を持ってくれたりする場にしたい」という思いでやっている。

しかし回を重ねるにつれ実感したのは、そもそもアンテナが高く興味がある人でないと、わざわざイベントにこないということ。
いくら食べ物や飲み物があるよとか、少人数だから質問もしほうだいだよ、と言っても、サイエンスに興味がない人、サイエンスはどうでもいい人が来ることはない。サイエンスを学んで欲しい人ほど、来ない。




もう2ヶ月前になるのですがノラヤサイエンスバー出張版という一大イベントをやりまして。
noraya-sendai.net

写真メインのレポートはこちら。
noraya-sendai.net


面白かったです。
面白かったですが。

実を言うと、あの時集まった人の半数が結果的に東北大学関係者(卒業生、元職員、など)。嫌な言い方しますと、あたまいい人たちが集まって「ニセ科学けしからん」というイベントやって、それは果たしてよかったのだろうかと。
だって元から、みんな「けしからん」ということは知ってるんだもの。
こういうのに最初から問題意識を持っている方がたくさん集まり、こういうのを届けたい人にはどうやって届けたらいいのか、という話まで行けると理想的なんだけど、現実それは非常に困難で徒労に終わることは、みんな日々実感しているので、そこまでは行かなかった。

サイエンスバーをどうやっていくべきか、誰に向けてやっていくべきか。

他の事例を知りたい。
それで私も、サイエンスイベントに出てみたんですね。自分がサイエンスイベントを主催しているくせに、一度も出たことがなかったんです。東北大学サイエンスカフェ
cafe.tohoku.ac.jp


2回、参加しました。
いやー、百聞は一見にしかず。よくわかりました。
想像だけって本当にダメです。体験しないとダメ。行ってよかった。今後も行きたい。

予想通りだった点はこういうところ。

  • 開催時間が18:00からという、まっとうな勤労世代や学生には無理な時間設定であるため、そういった層は少ない
  • リタイヤ世代がほとんど(ざっとみたかんじ、60代以上が50%)
  • 男性がほとんど
  • プレゼンテーションは細かすぎてよく見えない(これは私は高橋メソッドのようなでかいプレゼンに慣れたITの世界にいたからか)
  • 話題が広すぎて講演者が早口
  • ディスカッションタイムが少なすぎ

Youtubeで動画が公開されているので、このへんはなんとなくわかってた。


体験してはじめて実感できたのは、「参加者のきもち」。
参加者は、なにを求めているのか。なんで来るのか。何しに来るのか。なにがどうなると満足なのか。
テーマが面白いとか研究成果が最先端だとか有名な先生だとか、それも大事。というより主催者としてはそれを重視したくなる。
でも、「イベントに参加できた感」が、得られるかどうかは「ディスカッションに参加できたかどうか」なんですね。先生の貴重なお話を講義として聞く、学術の世界に触れる、それだけで充分とも思っていたけど、やっぱ物足りないものなんですね。

ディスカッションタイム、一回目のサイエンスカフェの時は、私もけっこう話した。しかし人の発言を受けてこう思うというような議論にはならず、一方的にぽつぽつ喋るだけという印象だった。
二回目のサイエンスカフェの時は、ちょっと事情があって私は一切発言をしないことにした。その時も一部の喋りたい人が場の雰囲気を持っていってしまってやはりしゃべれない人がいた。
で、やっぱり私が喋れなかった回の方はちょっと満足感が低かったように思う。

でも人数があれだけいて、限られた時間で全員に喋る機会を与えるのって無理だ。テーブルごとのファシリテーターの学生さんやスタッフも「はいストップ次の人」なんて言えないしねぇ。1テーブルごとの人数も7−8人と多いので、ディスカッションするとしたらせいぜい5人が限度に思えた。

ただ、二回目の時は場の雰囲気が一回目と全然違った。
司会をしていたのがサイエンスコミュニケーション分野では良く知られた先生で、見事に場をファシリテーションしていた。
前回のサイエンスカフェでは、喋るターンではないのに喋りたがる人が続出で「でも、こんなもんなんだろうな」と思ったのだけど、この先生が司会しているとそういう自己主張したい人たちの気配をぴしっと抑えて、威圧感、ではなく、納得させる感とでも言ったらいいのか、なんかもう「治めてる」感があった。テーブルごとに出た質問を受け、来場者のレベルに話を噛み砕きつつ、補足説明をしつつ、さりげなく笑いもとりつつ、そして「先生いかがでしょう」と講師の先生にマイクを渡す。おそらくテーブルごとの様子も歩きまわりながら把握して、質問の順番も決めていたのだろう。ファシリテーターのやり方で、こうも会の雰囲気が変わるのか……と、圧倒されてしまった。

しゃべれないと満足感が低い、と先に書いたけど、喋れなくても納得して腑に落ちて帰れたら、参加者としては、いいのかもしれない。

ただ、一方的に喋りたいだけ喋る人たちへのもやっとした不快感はやはりある。
自己主張の強いじいさんたちやおしゃべりが得意なおばさま方が、ばーっと喋ってしまう。
これは別のサイエンスイベントでも、あることのようだ。



さて、東北大学サイエンスカフェに参加し、ノラヤのサイエンスバーと比較してみて、なるほど、全然違うと思った。
参加者の年齢層も、意識も、イベントの構成も。
しかし目指す所が「一般の人が気軽にサイエンスに触れる場」という点では共通しているだろう。メディアテークで開催しているので、入りやすい&知名度があるという点で、東北大学サイエンスカフェは圧倒的に「一般の人」が参加しやすい。これはノラヤでは真似したくたってできないことだ。一方で、自分語りしたい中高年が多くなり、ファシリテーションが重要になってくる。
一方でそもそも、ノラヤの場合、少人数でなごやかな雰囲気だよといくら宣伝したとしても、一般の人としては「やったー、いっぱい先生に質問しちゃおう」ではなく「先生と同じテーブルにつくなんて、緊張」に、なってしまう、ということが今更ながら、わかった。自分語りしたい中高年はそもそも、ノラヤのような場所があると知っても気後れしてこないんじゃないだろうか。


となるとやっぱりバリバリフィルタリングが効いている状態なので、ノラヤサイエンスバーの参加者のレベルが高くなってしまうのは、いたしかたないのではという気分になってきた。ううむ。

なんだかうまく結論が出ないので、この問題については、いろんなサイエンスイベントに私も出張して行って引き続き考えていきたいものである。


最後に補足だが、私が東北大学サイエンスカフェに参加した後、2回とも一人で飲みにいった。
ビールやワインを飲みながら、もらった資料をぱらぱらめくっているのは、なかなか贅沢な時間だった。アフターサイエンスカフェ飲み、という新しい文化ができたら、それこそ学都仙台っぽくて素敵なんじゃないかな。