「平場の月」朝倉かすみ
50過ぎた男女のセカチューみたいな話を書きたいと著者が語っていたのでそうなんだろう。
これも人が死ぬ話。なんで読む気になったかというと、押し入れに敷いている昔の新聞紙にこの本の広告が出ていたのでちょっと気になっていたのと、朝日新聞の土曜日のbeのエッセイ「作家の口福」で著者が食べることについて書いていて、どうもたくさん食べる人らしく、親近感がわいたから。
映画化が決定?という情報も見かけたけど、コロナで延期になっちゃったっぽい。
須藤(女性)の喋り方のドライな感じが私みたいで好き。私もガンだったらどうしようと思って健康診断に追加料金も払って大腸がん健診もしてもらった。結果は問題なかったけど。いずれ私もこんな感じで突然ガンになって死ぬんだろうなと、この本読んだときも思った。
ふつうの、人が死にました小説と違うのは、主人公達がいろいろ背負った中年男女というところ。
因果応報、という言葉が出てくる。これがすごく怖くて恐ろしい。病気なんて誰にでも分け隔てなく降ってくるものだし、若い人なら「なんでこんなことに」と言える。でも、年を食ってそうなると、それまで蓄積してきた行いから勝手に理由をえり好みされて、
「ああ、なるほどね。そういうことをしたからそうなるのね」
と、理由付けされてしまうのだ。
人は理不尽が嫌いで、なんとかして納得したい。だってなにか理由がないと、自分だっていつ死ぬかわからないという恐怖と戦わなきゃいけないから。「あのひとはああいうことをするから、病気になるのよ、因果応報なのよ」そう言って安心して、それで噂話のネタとなる。いやだなぁ、ほんとうに。
そしておそらくその自動思考が私自身にもしみついているのが怖い。
「因果応報」と言われることに一つも思い当たらないほど潔白な人は、50くらいになるといないんではないかと思う。だから我々、悪いことした報いだなあとことあるごとに思って日々を送っている。
人が死んでしまう悲しい話だけど、不思議と「これは泣くわー」という重苦しさはない。あまり苦しんだり悲しんだりする描写がしめっぽく書かれていないからか。
誰かが誰かを確実に愛した記憶というのは、美しい。 それでも、因果応報と言われたまま死んでしまった悲しさを、どうかキラキラしていない飾らない描写で映画にしてほしい。